華下天満宮

高松市百間町 (平成21年3月28日)

東経134度03分19.73秒、北緯34度20分31.39秒に鎮座。

この神社は、琴電・片原町駅の南西200m程の辺り、飲食店が所狭しと並んでいる、繁華街の中に埋もれるように鎮座しております。嘗ては、正殿、中殿、拝殿等が建ちならんでいたようです。花街だった百間町へ通り抜けられた、古天神さんの境内は、芸妓さんたちもたくさんお参りし、寄席小屋があり、見世物も懸かりたいそう賑わっていたそうですが、今は往年を偲ぶよすがもありません。高松空襲で全てを焼失し、闇市のバラックが境内を占領し、何時の間にか、酒場や飲食店街に変ったようです。

 当社は片原町の天神さん、古天神さんあるいは北向天神として長く広く高松市民に親しまれた名高い神社である。昭和二十年七月四日の高松空襲で社殿などを全焼したが且ては三百四十五坪余(1,138平方米)の境内に正殿、中殿、拝殿などが建ちならび稲荷神社、琴平神社、石の大牛などもあって毎年九月二十五日の例大祭はもとより四季を問わず参拝者が訪れ境内にしる屋、ぜんざい屋があって市民たちのよい憩いの場でもあった。祭神の菅原道真公は仁和二年(886)四月四日讃岐の国主として着任、其時この近くに上陸、まず長命院(戦前天神さんのあった土地)の住僧僧圭を訪れて休憩、それから任地の国府庁(現坂出市府中町)に赴かれた。四年後寛平二年(890)正月任満ちて京都に帰られる時も、ここを訪れ、僧圭に別れを惜しまれて、ここから船出された。僧圭は其後道真公を慕うあまり、公の行先の安泰を祈って院内に小祠を建てた。これが当社の始まりである。その後延喜三年(903)二月道真公は配所で亡くなられた。これを聞いた、高松市民の住民はこの地から少し東に一社を建立したが生駒藩の時代になり、初代親正候は高松城の守り神として入り口を北にむけて社殿を改築した。北向天神の名はここから出ている。古天神と云うのは中野天満宮より建造が古いのでこの名がある。尚当社の大規模な社殿の造営ができたのは松平藩第三代頼豊候の時代であった。爾来学問の神様として一般から尊崇され今日に及んだ。
山田竹系謹記
境内由緒書より。原文はこちら。

参道入り口

神社入り口

拝殿

可愛い玉乗りがお護りしています。拡大写真はこちら。

石工・木田郡牟礼村久通・和泉竹一

本殿

参道入り口。天神様の牛。