船山神社

高松市仏生山町甲 (平成21年3月27日)

東経134度2分16.04秒、北緯34度16分22.12秒に鎮座。

この神社は、琴電琴平線・空港通り駅の南南東700m程、県道280号線沿いに鎮座しております。しかし参道は280号線と平行になっており、入り口は県道から少し入った所にあります。

後祭神:倭迹々日百襲姫命・彦五十狭芹彦命・猿田彦命・天隠山命・天伊田根命

社伝によれば(人皇第七代孝霊天皇の皇女)倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。此の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給いしにより、祠を之を奉ず。地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は命の御名によって起れりと。彦五十狭芹彦命は百襲姫命の御弟に座し、他の三神は配祀せるという。創建は天平年間といい、初め浅野村船岡山に鎮座あり。船岡山は古く百相郷に属し船山と称し、当社又船山神社と、称へられ三代實録に「天慶五年十一月十四日、戊午授、讃岐国正六位上、船山神社従五位下」とあるは当社なりといえり。鎌倉時代まで、社殿宏状、近郷の大社にして国司守護の尊崇厚く、細川頼之当社を以て岡館北方の鎮守となし、大野、百相の間にて、二石三斗(345kg)を寄進し、貞治五年三月扁額を奉納せしこと讃岐細川記に詳なり。天正年間に至りて、土佐国長宗我部元親当国を侵撃せし時、不幸にも当社は焼損に罹りたる。以て別当神宮寺の境内に社殿営み奉遷せり。これ現今の鎮座地にして、爾来神宮寺大明神と称せらる。神宮寺は渡世変により廃寺となりしが当社は、氏子の奉祀する所となり存続す。然れども社号は猶神宮寺大明神と唱へられ、旧藩の帳簿に神宮寺神社と載せられたり。高松藩主松平頼重法然寺創立、神宮寺の地を以てその寺領とするに及び、領内一社の神として崇顧厚く、年毎に米一石二斗(18kg)の奉納あり、慣例となり明治初年に及ぶ。又社にある古松は、頼重公が、日向国より移植せしものにして、他の松と種類を異にせり。明和二年正月火災により(古老の言伝に曰く。昔は水は、正常なるものとの概念から水堀の中に本殿を建立して居たとの事。御神体焼失は、まぬかれたが瓦類其の他焦土と化したもの全て、水堀の中に埋め立てしたとのこと。たまたま瓦類の出土を見るに、奈良時代和銅〜大同年間の造り模様、尚瓦浦面には布にて型づくりし布目のあとあり。古人之を布目瓦といえり。今より千百年前のものと推測す)
安永二年本殿を再建し、文化三年幣殿を建築せしが、爾来久しくなりたるを以て、明治三十二年改築。明治初年社号を百相神社と改むる。大正五年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。戦後昔の社名船山神社に復旧す。昭和初期頃より御拝殿改築気運ありしが時運いたらず、昭和三十八年に宿願の御拝殿釣殿共に一般氏子各位の労務奉祀並びに崇敬者信徒の御寄進御協力によって願望達成するに至りました。同五十年御本殿の御屋根銅板に葺替え、つづいて翌五十二年慶應二年建立の随神門の御屋根葺替の大修繕。敬神の念厚き氏子は、昔の宏壮な社殿の姿を偲びつつ復旧に努力致し居ります。尚本殿傍には楠樹齢千年余り、根もとのまわり12.8メートル枝葉のひろがり約37メートル樹勢きわめてさかん(昭和三十五年七月七日県の天然記念物に指定)初夏の頃の新緑の美しさは格別、境内には数本の梛の銘木あり。
境内由緒書より。原文はこちら。

由緒書に登場する船岡山はここの南700m程、船岡池の北側にあります。「初め浅野村船岡山に鎮座あり」と書かれた場所のようです。

神社入り口と社号標

神門と狛犬

神門前のスリムな狛犬。拡大写真はこちら。

(嘉永2年(1849)8月吉日建立)

境内

拝殿

屋根上の狛犬。立っているのは珍しいかも知れません。

向拝下の狛犬

社殿

香川県指定天然記念物船山神社の楠

境内の石祠