ちきり神社

高松市仏生山町 (平成21年3月27日)

東経134度3分7.74秒、北緯34度16分17.1秒に鎮座。

この神社は、琴電琴平線・仏生山駅の南東1.5km程に、仏生山があり、雄山、雌山と呼ばれる二つの小さな山となっています。その雌山の上に鎮座しております。南西の雄山には法然寺があり、嘗ては一体であったと思われます。

仏生山(ぶっしょうざん)とは、高松市中部に存在する一地区。かつては全域が「香川郡仏生山町」(ぶっしょうざんちょう)として存在し、1956年9月30日に高松市に編入された。1668年(寛文8年)に初代高松藩主松平頼重が菩提寺として法然寺を建てたことから門前町として繁栄し、戦後は高松市のベッドタウンとして人口が増加した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

稚日女命は天照大神の御女に直して太古御母大神の御側に神布を織るらせ給ひし神にまし坐せり。
神功皇后三韓征伐の御時大神の和魂は皇后の玉身に服ひて皇后の御壽命を守護し、荒魂はみをさきとなりて皇后の師船を導き給ひ活田の長峡の國に居らんと宣ひし大神なり。
当社は、往古香川郡浅野村唐戸に鎮座まして神威顕著なりしを後、一條天皇萬壽年間佛生山町浅野村の境、今の平池のある所は一面松原にして高からず低からず清き岡にして景色善き宮所なりとて宮所をその地に移し奉らんとす。里人神威を恐れて是に故障起り今に喧嘩池唐土■(ちきり)高等名の残れる所あり。
近衛天皇久安年間宮殿の周圍に池を築く然るに後年水掛かり増加し池狭溢灌漑に便ならざるを憂ひ後白河法皇治承二年当時天下に知行数三十余ヶ國荘園五百余ヶ所に及び諸國に築島し或いは音戸の瀬戸を開通する等工事に着手せし平清盛は一子重盛に命じ池普請築城等に功ありし阿波の國の名族阿波民部(始め平家方にて屋島の行宮を築き後源氏に任へし人)をしてこの池を廣大に築き水理の便を謀らしむ、然るに堤幾度築きても水溜り申さず
是に國君より所々に仰せつけられし御■?に右様の所人柱を築き込み申さずては水溜り申さずと國君より國中へ人柱仰せ出されしも何れも御免を蒙り度由申して池普請ならず。里人憂へ悲みてありけるを或夜白衣着用の垂髪の神女■(ちきり)布を抱へ往来ありしを人柱申て築き込み申せしに是に始めて池普請成就すと是に里人神徳の尊く不思議なるを敬ひ歓びあへり、この池を平池という又平清盛の命によれるによりこの稱ありとも云傳ふ幾許もなくして洪水あり支流洋々として宮殿を潰す依って西方岡上に遷宮し今此所を古宮と稱す。次で当方佛生山に遷す。爾後松平頼重朝臣水戸より封に就くにあたり、佛閣を此の地に創め以て同家の墳墓の地となす。是に霊元天皇寛文九年酉冬十一月十三日前山現在の社地に遷宮す。社殿に頼重朝臣の建立に係り、爾来國主累代の尊敬厚く、藩主と當社の関係につきては田村内記著■(ちきり)大明神来由並神主由緒に詳しく、即ち 當國一宮田村の社祠官田村武太夫二男四郎太夫を以て當社神主となし、高十八石を寄進し、當社唯一神道社格は、通稱四社と稱する石清尾八幡宮、中野天満宮、道祖神社、稲荷神社(高松市鎮座)と同格となし、毎年正月四日城内書院に於て獨禮拝謁を許さる。又當社境内東北隅に宗源檀と申す祈祷所を設け、國中事ある時は、藩公自ら祈祷をなし國中へ神符を配布すと。
當社御鎮座以来是に二百八十年社運益々隆昌、幣帛神饌料供進の社に列せられ、佛生山下浅野村の産土の神として今日に至れり。
境内由緒書より。原文はこちら。

最初は香川郡浅野村唐戸に鎮座。その後今の平池のある、佛生山町浅野村に遷座。後平清盛の命で灌漑用の池となり「平池」と称され、当然水没する為、西方岡上に遷宮し今此所を古宮と称した。その後、仏生山に遷座、更に松平氏が仏閣を此の地に造る為、寛文九年冬現在の社地に遷宮す・・・とあるので、初めは雄山山頂。その後現在の雌山に遷ったと言うことです。

ちきり:織機で、縦糸を巻くのに用いる、木製で中央のくびれた棒状の部品。おまき。輪鼓(りゅうご)。大辞泉

石段の参道入り口

参道入り口の浪速狛犬。拡大写真はこちら。

年代は不明なのですが、台座に「ちきり社」の文字が見えるので、多分明治以降と思われます。

参道

石段上左右の狛犬。遮光土器のような目をしています。拡大写真はこちら。

神門

境内

拝殿

木鼻の龍

本殿

工初神社

琴平社

不明の末社

一体だけの狛犬。玉でなく岩に前足を置くのは佐賀タイプか。

不明の末社

小さく可愛い狛犬ですが吽は惜しいことに顔が欠けています。拡大写真はこちら。

稲荷神社

お狐さま

大内神社と地神社(社日)

お百度石と狛犬。小さいが精悍な顔つきです。昔は燈籠の上に居たのでしょうか。

天満宮と筆塚