楠尾神社

高松市国分寺町新居3372 (平成27年10月24日)

東経133度58分28.69秒、北緯34度18分20.87秒に鎮座。

この神社は、JR予讃線・端岡駅の北東700m程の辺り、新居宮池北東の小高い所に鎮座しております。

御祭神 玉依姫命・八幡大神

由緒
古代讃岐の忌部の祖、手置帆負命が当国の国造であった時、国の平和を祈る鎮護神として小祠を祀り、命の次子、手置日下大人道長を宮仕えと定め、楠尾の宮の崇め奉った。そのころ社辺に楠の大木数多繁茂し、朝廷の造船用木に献上したとも伝えられている。別名「甲朕の宮」の号がある。仁徳帝の御宇、霊異があり、さらに欽明天皇の御宇には光り物が飛来して楠の枝に留まり、三日三夜光り輝いたので、人々大いに驚き社殿を造営し、後に八幡神を合祀してこの地の氏神になったともいう。
仁和2年(886)に社が再建され讃岐の国司菅原道真が奥谷に庵居を置いて当社を尊崇、境内に<池の房庵>を建てた。このころ、南の下乗石を再建し、当社は大社になっていたようである。
鳥羽帝の保安年中(1120〜1123)、讃岐守藤中納言家成が一女に宮仕えさせて尊崇した。
天正10年(1582)長曾我部郡軍の来襲によって当社もその戦火に遭い、社殿・宝物記録等を焼失し、神宮・所役の社人・社僧のほとんどが離散した。その上、社領の田地は国主尾藤氏に没収されて大半を失った。生駒家の代となり、一正は家老安芸肥後に命じて社殿を修造し、社領を付し市立ての広場まで開発したことが「全讃史」に記されている。
天和元年(1681)8月に大洪水あり五間四面の本殿と社殿は風雨のために倒壊したので再建した(社記)。
境内由緒書き より。

参道入口

一の鳥居

参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

二の鳥居

境内入口

拝殿

拝殿内部

本殿


地神社・田村社

三神社 畝尾社
龍田社 恵比須社

石祠

地神社(社日)

一の鳥居右手の御旅所

御神木