横山八幡宮

宮古市宮町1(平成17年7月26日)

この神社は宮古駅の南東約300m、横山に鎮座しています。通称「おはちまんさま」と呼ばれ市民から親しまれているこの神社は、由緒によると御祭神は品牟陀和気命 、豊受姫命 、天照皇大神の 三柱の神さまをお祀りし、創建年代は、社伝によれば白鳳9年(680)と伝えられ、この横山は閉伊川の上流から洪水で流されて来た山と言われているそうです。その他案内板にあるように宮古の地名の起こりや、小沢「鹿子踊りの起源」については最後に記載します。ここは横山という小丘上にあり豊かな杜と静かな環境で尚かつ市街地に近いせいか訪れる参拝者も多く久しぶりに地域に密着した八幡様に出会ったという感じがしました。

(昭和12年8月15日建立)

(平成8年6月吉祥日建立)

(昭和20年6月15日建立)

宮古一中角の一の鳥居

神社入り口の二の鳥居

逞しい古武士を思わせる風貌の狛犬

きつい登りの階段

ご神木

拝殿

本殿

彫りがシャープなせいでしょうか。機械彫りの狛犬は何か厳つく冷たく嫌みな感じがします。

敗戦間際によくこんな狛犬を制作し奉納したものだと感心させられます。

変わった灯籠

紫陽花がまだ咲いていました。

利口そうでおとなしい社務所のワンコ

●「宮古」地名の由来
寛弘三年(一〇〇六年)、阿波の鳴門が、突然鳴動し怒涛逆巻く天変地異が起こり、帝は諸国にお布令を出しこれを鎮めようとした。当宮の禰宜も、これを鎮めようと日夜祈祷をしたところ、一首の神歌を得ることができた。禰宜は、早速この和歌を御神歌と感じ、阿波の鳴門に赴いた。
御神歌「 山畠に 作りあらしの えのこ草 阿波の鳴門は 誰かいふらむ 」
と詠じると、忽ち怒涛は止み、元の静かな海にもどった。帝は、これを大いに喜び、禰宜を召して八幡宮の様子をお尋ねになった。禰宜は、これに和歌をもって答え、
「 我国に 年経し宮の 古ければ 御幣の串の 立つところなし 」
と神古びた様子を申し上げたところ、帝は、その歌に御感あって、「宮の古ければ」の一節をとり、「都(華洛)」と異字同訓の「宮古」という地名を禰宜に賜った。以来、この閉伊の湊を「宮古」と言うようになった。

●小沢「鹿子踊り」の起源
元明天皇の和銅年間(約一二五0年前)猿丸太夫が天皇の怒リに触れてこの地横山の里(宮古の古称)に流されたとき、里人は殿上人であった太夫に頼んで八幡宮の宮守になってもらった。太夫は失意の日々を山野に遊ぶ鹿に慰められ、里人の善意に支えられて暮らしていたが、
・・・・ 「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」
と詠んだ配所の歌が上聞に達し許されて都へ帰って行った。
里人は今更ながら太夫の徳をしのぴ、鹿にたわむれていた往時の太夫の心情に想いをはせて鹿子踊を創案し、横山八幡宮の例祭日にこれを奉納したという。
爾来、時代の推移、民生の消長と共に幾星霜、鹿子踊リは黒森山麓の小沢部落にその命脈を保って来たのであるが、たまたま兄頼朝軍の目をかすめて平泉を逃れた源義経が、北方へ落ち延ぴる途次、当市黒森神社に参篭し、前途の平穏を祈願するため大磐若経を書写したと伝えられているが、小沢の鹿子踊リが義経の一行のつれづれを慰めたところ、義経は非常に喜ぴ、
・・・・「鄙の心のかく厚し、小沢の里よ鹿子よいやさか」
と宣い、源氏の大将として都において華やかな歌舞音曲を身につけていた義経は、踊の所作、調ぺの妙ていについて数々の助言をなしたので、小沢鹿子踊リは一段と洗練されて雄渾華麗なものとなリ、その来歴とともに独自の踊リとして今日に伝承されたものである。(宮古獅子踊り由来)_宮古獅子踊り保存会刊より
(以上、横山八幡宮ホームページより転載させていただきました)