多岐神社

北上市立花28-17 (平成26年8月23日)

東経141度09分52.49秒、北緯39度17分14.27秒に鎮座。

この神社は、北上駅の東北東5km程の辺り、人家を外れた山中に鎮座しております。

御祭神 稲倉魂命

由来
抑、多岐大明神と申し奉るは、往昔人皇50代桓武天皇の御宇、征夷大将軍坂上田村麿、勅命を奉じ東国の鬼神首領、悪路王高丸其の外これに組する鬼神共を退治の為、陸奥に下りけり。
稲瀬の奥なる三光岳に潜居する岩盤石と申す鬼神、悪路王に組して、余多の手下擁して其の勢力大なるに、将軍三百余騎を差し向けて攻めるも、厳窟峻険にして容易に攻め難く、止むなく北東に迂回して背後より攻め破らんとせしも、路に迷いて難渋、加えて6月半ばの炎天、軍兵渇して疲れ倒れる者出る始末なり。
このとき80余の翁、薪を背負いて通るを、此の辺りに清水の湧き出づる処無きやと問うに、此の先に清水の湧き出づる泉あり、下流に瀧有りと申したれば、その瀧に至りて陣をとり、渇を癒しければ、兵勇気百倍となり士気大いに揚がる。而かして翁の案内にて三光岳を急襲致しければ、流石の岩盤石も三百余騎打討られ北方へと逃げされり。
将軍翁を召して其の功を賞し、砂銀を当分として与えたり。
其の後将軍、鬼神悪路王其の他の鬼神共を討伐、帰京のみぎり、当所に立ち寄りて、かつての翁を尋ぬるに、村人申すには其の様な翁の住居も無く知る者も無しと、かへりみるに此の地に東光水と申す瀧ありて、この水にて妻の木の枝なるを煎じて用いれば病気直ちに全快するとの霊地あり、翁は其の瀧の化身に非ざるかと申し上げたれば、将軍不思議に思い、瀧に参りて見渡すに・・・・瀧の下なる石に砂銀置かれ在るを見る、些ては矢張り翁は化身にて征軍の難渋しあるを観兼ね、自づから御導引きになられたに相違ないと、その有難さに、瀧の落つるに向いて三度礼拝し、命じて一社を御建立、多岐宮と号し崇め玉もう。ときに、延暦21年(802)8月の事なり。
後代に至り藤原仲光、立花村高舘に住みし頃、干ばつ冷温が縷々有りたれば、村民困窮の処、東光水の流れる処は独り五穀実りしは多岐宮を祈誓護持し参りし仲光の至誠通じたるか、神の恵みに村人その有難さに参詣怠らずとか、云々。
此の由、都に聞こえければ、関白藤原頼道、帝に奏上成りたれば、帝此れを嘉みし、三井兼平を勅使として御遣わしになられたり。依って御堂三間四面を再建され、境内二丁四方、山林十丁を附属して神社守護の礎とし、稲倉大明神と改号せり。
御堂再建を祝って三井兼平「都にて聞きしに満さる多岐の宮 峯の古木に照らす月影」と詠みたり
ときに長元8年(1035)4月、後一条天皇の御宇なり。文政7年(1824)に至りて、此れまでも神社の修復、改築は数度行われてきたのだが、破損甚だしくなりたれば、南部家の地頭桜庭十郎衛門の助力と近隣の寄附により建立したのが現在の神社にして、彫刻の精巧さは希少の物とされている。
境内由緒書き より。

由緒
創建は延暦21年(802)坂上田村麻呂東国平定により当所に一社を建立させたと伝わる(由緒文あり)
明治4年(1871)日本国は一町一村一社制の神社改革を行い立花村村社と定めた。
平成8年(1996)御本殿鞘堂屋根替と境内整備を行った。
当社は電気も水道も引けない稀な神社な反面1200年前の景観がそのまま維持され、その静かな佇まいは訪れる人の心をひきつける。
文政7年(1824)再建された御本殿は平成10年(1998)市の指定文化財を受けた。小規模な彫物が施され上下四方のマス組が珍しい。
岩手県神道青年会公式サイト より。

神社遠景

鳥居

参道

境内

拝殿

本殿覆屋

本殿


瀧と新山宮

石碑