八幡神社

一関市釣山19 (平成26年8月21日)

東経141度08分06.03秒、北緯38度55分12.26秒に鎮座。

この神社は、一ノ関駅の南西800m程の辺り、一関の街中に鎮座しております。

御祭神 誉田別命・坂上田村麻呂・田村輝定

由緒
当神社は延暦年間(782〜806)坂上田村麻呂が東夷平定の際館山(現釣山公園)に陣営を築き諏訪の大社(長野諏訪大社)に勝利を祈願したのが紀元とされ、その後、康平四年(1061)源頼義、源義家が安倍貞任征伐【前九年の役】の折、田村麻呂と同じく館山に陣を築いた際、合戦の祈験のため伊勢の神宮、京都の石清水八幡宮へ、中原大夫清房を奉幣使として使わせたところ両宮の大御神の御託宣を賜り、この地域の八方に八幡宮を勧請した内の第一社です。
天正二年(1574)相殿に八雲神社、文禄元年(1593)諏訪神社を再奉し寛文二年(1662)藩主伊達宗勝により現在の地へ遷座され以来現在の地の奉斎されています。
文禄七年(1694)初代田村藩主、田村建顕は一関に赴任した際、この地に坂上田村麻呂を慕う人々が多いことから伊勢へ伊藤惣助を代拝参宮へ使わした折、土山(滋賀県甲賀市)に鎮座する田村社の御分霊を田村神社として当社の相殿へ合わせ祀り以来藩主田村氏の崇敬神社また一関(現市街地)の総鎮守としてお祀りされています。また現在千畳敷(釣山公園)へ鎮座している田村神社は、大正時代に田村家江戸屋敷邸内へ祀られていた御社を遷座したものです。明治四年郷社、明治八年村社、昭和五年再び郷社に列します。
昭和四十六年十二月、社殿が全焼し貴重な文化財(田村建顕公、射的奉納弓矢、算額等)を消失してしまいましたが、当時オイルショックの不況の中、氏子崇敬者の篤い奉賛により昭和四十八年現在の御社殿が再建されました。
由緒書き より。

参道入口

参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和5年(1930)建立)

参道

境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。
(嘉永7年(1854)2月18日建立)

拝殿

本殿


天満宮参道

御祭神 菅原道真公
江戸時代、東山天皇の御代宝永三年(1706)一関藩主田村建顕が一関へ赴任した際、家臣の境澤弥三郎が藩内の学業向上のため八幡神社境内へ勧請しました。明治三十五年拝殿を修繕、石壇を築造し、昭和十五年境澤弥三郎七世孫、弥太郎が玉垣と石垣、旗枠を修繕奉納しました。書道の神様としても有名のため、戦前は子供らが自分で書いた書を奉納しており、現在でも市内の学問に励む学生や社会人に篤く崇敬されています。

竹駒神社

御祭神 倉稲魂命
江戸時代、東山天皇の御代元禄四年(1691)九月、一関藩主田村建顕が一関へ赴任した際に、この地に五穀豊穣また商業の発展を願い、それまでの田村家の領地であった岩沼より竹駒稲荷神社を勧請しました。明治十年、藩士の谷津太郎吉により再建され、現在に至ります。以来、商売繁盛の神様として市内の商いを生業としている方々により篤く崇敬されています。

八雲神社