八幡宮

花巻市石鳥谷町八幡1-51(平成22年8月20日)

東経141度8分44.43秒、北緯39度28分9.3秒に鎮座。

 この神社は石鳥谷駅の南約2.2km、東北本線線路近くに鎮座しています。一面の稲穂の向こうに大きな杉林。その切れた一画が神社の境内地です。入口に立つ台輪鳥居をると石段が有り、その上に境内が造られています。境内は右手が杉林、左は明るく広々と開け、境内右奥正面に入母屋造りの拝殿、覆い屋内に本殿が建立されています。又、境内には神楽殿や沢山の石碑群が見られます。

 御祭神:誉田別尊
 祭礼日:9月15日
 由緒:人皇第50代桓武天皇延歴20年鎮守府将軍坂上田村麻呂奥羽開拓の御願に依って吸収宇佐八幡宮神爾を胆沢郡に勧請す 之胆沢鎮守府八幡宮なり、奥州藤原氏平泉に據りて奥六郡を領せしとき鎮守府八幡宮の神事祭礼は当郡より勤むるを例とす。
 奥州藤原氏滅亡に伴い葛西氏胆沢郡を領せしにより定例神事を廃し、鎮守府八幡宮神爾を当郡長嶋(新堀)に勧請す。8月15日例祭とし郡主自ら監守す。然るに、大河北上川屡々洪水となり、道路、堤防の破損甚だしく参拝の交通不便を極わむ、永禄年中北上川の氾濫により長嶋八幡の社殿流失す、依って、当神社を建立し之を奉遷し、稗貫・和賀地方の鎮守となす、以後郡主の向拝長嶋より当社に移る。元当地を真木村といいしが、これにより八幡村と改称し四季の祭礼を勤め来る、郡の向拝これより盛んなり。
 南部氏当地方を領するに及び代々当社の尊信暑く恒に花巻城代をして幣帛を参進せしめられ、元和5年に南部利直公より八幡別当に手作り三石の黒印状を下しおかれ、次いで寛文7年改めて手作り三石七斗花巻代官奥瀬治太夫・毛馬内九左衛門連署の証文を下付、弘化2年小高五斗南部家家老讃岐外六名連署の加増証文、更に安政4年居屋敷添六石一斗七升一合御勘定奉行高橋万右衛門外五名連署の証文を下付せらる 又当神社は、元禄4年神殿・拝殿・華表の造立を始め文化6年宝殿修覆に至るまで、すべて藩主の祈願により成れるもので、作事奉行の監督のもと下金をもって造営される等領主及び庶民の尊崇益々篤く神威弥赫たり。
(境内案内板より)

 延慶年中(1308−1311)当郡領主胆沢鎮守府八幡宮を河東長嶋村(後の新堀村)に勧請し、稗貫・和賀二郡の鎮守としたと伝えられる。
 天正十八年(1590)稗貫氏没落し、南部氏代りて当郡を領するに及び、累代の藩主尊信篤く、花巻城代を遣わしてしばしば幣帛を参進した。然るに慶長年間(1596−1615)北上川屡々洪水となり、道路・堤防破損甚だしく、代参使不便を極めた。よって当八幡村に奉遷したものといわれている。
 明治四年(1871)村社に取据になる。
(「岩手県の神社」より)

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神社遠景
社頭
入口に立つ台輪鳥居 鳥居に掛かる額
境内入り口
参道の様子
境内の様子
拝殿前、建立年代不明の滋賀型狛犬
やや太め、でもお洒落でダンディな叔父さん…と言った風情の狛犬です。
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拝殿
弊殿・本殿覆い屋と本殿
神楽殿
月山三山、鳥海山碑 天照皇大神、湯殿山、七庚申碑
田神、駒形神社、湯殿三山、庚申碑 七庚申、庚申、山神碑
七庚申、庚申、金比羅山碑 七庚申、金比羅山、湯殿三山・鳥海山、三峯山碑
駒形神社 松尾大神
忠魂碑 八幡宮獅子舞忠孝之碑
鎮守の杜の様子