諸岡比古神社

輪島市門前町道下 (平成21年5月6日)

東経136度45分4秒、北緯37度17分8.12秒に鎮座。

この神社は、能登半島の北西、小川を前に豊かな社叢を持って鎮座しております。

延喜式内大社 諸岡比古神社由緒
元八ヶ郷百八ヶ村惣社

祭神:岩城別王、天日鷲命、三筒男命、豐受大神、大国主命、国狹槌命
社伝によれば当社御創立は古代崇神天皇の御代の御鎮座とされ延喜式内の大社なり(延喜式神名帳制定八八一年)貞享二年(1686)由来記によれば櫛比八箇之大社銕河宮即ち八ヶ郷百八ヶ村内の百十二社の惣社たり八箇郷は八庄より其名生れ即ち櫛比庄、二箇庄、本郷庄、浦上庄、阿岸庄、仁岸庄、七浦庄、大沢庄、有りて各庄には郷社を奉斎し当銕河宮は八庄の惣社たり。永禄三年(1549)銕河宮記によれば当宮は壱千有余年の霊地にして旧三月三日より十八日迄八ヶ郷、業を休み郷社大祭に参加したり、延喜六年(885)醍醐天皇当社に御祈願のため神鏡を御奉納されたり。四條天皇の御代走出村に分霊を祀りしが神託により元享元年正月本宮に還幸せしめ奉る。当時此地は羽咋郡に属したるため羽咋郡十四座の一に列せられたり。八ヶ郷大祭には特殊神事が奉納され、曳山、流鏑馬、舞童、奉燈、松明、篝火、大鼓、大旗、獅子舞などと共に各村より神輿が当郷社に渡御され一大郷社大祭が奉仕されたり。其当地流鏑馬は本郷二又川より参宮、本内村からは松明、篝火の薪は浦上村より出で、小石村の木兵衛は薪を出し、勝田の鉾太郎兵衛は鉾を持ち、阿岸の右衛門、仁岸の左衛門とて御神事の警護役を勤め郷社大祭が行はれ、境内には銕河神事相撲が奉納され壱千有余年の久しき連々として恒例の祭儀は大社たる事の由縁なり。古代元弘建武の頃国内乱れ戦国の世となり上杉謙信の能登侵攻をまぬがれず、当大社も其難を受け、かつては七堂伽藍を有せし大社として壱千有余年信仰の聖地として盛況を極めたりしものなり。中古石瀬比古神社と称せられしも明治十四年銕河神社と合祀され明治十五年諸岡比古神社と改称す。明治四十年八月道下氏神住吉神社、善光寺森氏神地主神社、切配氏神神明神社を合祀す、明治四十一年四月神饌弊帛供進の郷社に指定さる。現在の御本殿は天保三年8(1681)百八ヶ村氏子中より御寄進を仰ぎ献立されたる重要なる文化財である。
境内由緒書より。原文はこちら。

ここより西2km程の辺りに総持寺があり、住所の門前町は勿論総持寺の門前町に由来すると思われます。曹洞宗太祖「瑩山紹瑾」により総持寺と改められる以前は「諸岳寺(もろおかじ)」。古くこのあたりは「もろおか」と言われたのでしょうか。この神社が延喜式神名帳記載の能登国羽咋郡、諸岡比古神社の可能性も否定できないが、あくまで論社の一つと言うことではないでしょうか。由緒書にもあるように諸岡比古神社となったのは明治十五年なのですから。

神社入り口と社号標

境内

拝殿

拝殿前の昭和岡崎型狛犬。

(昭和43年(1968)4月建立)

本殿覆屋