八幡(やはた)神社

七尾市八幡町ラ2(平成21年5月4日)

東経136度56分59.21秒、北緯37度1分10.9秒に鎮座。

 この神社は七尾線の線路脇に鎮座しています。参道入口だけが八幡町に属し、参道から社殿が建つ境内などは細口町に属しています。参道入口には二重の堀があり、大きな鎮守の杜の入口には「郷社 八幡神社」と書かれた社号標が建ち、石段を上がって台輪鳥居を潜ると、さわやかで清々しい参道が80mほど続きます。少し開けた境内には燈籠と狛犬が奉納され、大きな拝殿には「正八幡宮」の額が架かっています。本殿手前の右側、少し上がったところの奥に円墳があります。

 御祭神:息長足姫命、譽田別命、比淘蜷_、手力雄命、天照大御神、豊受大神
 由緒:当社の創建は不詳ですが、第56代清和天皇(858〜876)の御代、勅して一国一社の八幡神社を創建し給うによる、能登国八幡神社の惣社で、御歴代の重事あるごとに奉詔勅願あり、国司の神領の寄付など社地広大にして、往古より北国の名社として 正八幡宮と呼称された。
 国司畠山城主、毎年旧8月13日の祭事に騎馬で参拝し、末社の戸隠社(旧毘沙門天堂)広前で能・舞楽が奉納され、放生会と称し、神職は湯の花を捧げ、僧侶は柴刀護摩を焚き、氏子は勿論、近郷の老若男女、鯉鮒鯰などを持ちより、御手洗池へ放つを競ったと云われる。
 永禄元年(1558)3月、畠山義綱、社殿を改造し、同時に改造領地四丁を寄付す。
 天正年間(1573〜1591)まで社僧の善野寺があり、天台宗聖護院の堂塔や畠山城主の寄付による、神器・宝物等数多くあったが、天正の兵乱に悉く焼失し、その礎跡があると伝えられ、古鏡壱面、大和錦の戸張壱枚が残っている。
 その後、元禄12年(1699)本殿を改造し、文化2年(1805)8月、拝殿を改造す。
 八幡村の御領所地に末社の戸隠社があったのを本社に合祀。明治初年頃まで正八幡宮と称し、その後、現社名に改称。
 明治16年6月12日郷社に加列される。

「八幡神社御由緒」拡大写真はこちらで

社頭
入口の台輪鳥居 社号標
「郷社 八幡神社」
参道の様子
境内入口
境内の様子
拝殿前、昭和9年生まれの狛犬
耳を尖らせ鋭い目つきで威嚇の表情をしています。身体中に力瘤があり、吽には角が付いています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和9年(1934)8月建立)
拝殿 拝殿に架かる額
「正八幡宮」
本殿覆い屋