気多御子(けたみこ)神社

小松市額見町サ58(平成24年6月3日)

東経136度24分36.53秒、北緯36度21分16.31秒に鎮座。

 この神社は粟津駅の西約1.6km、粟津工業団地近くに鎮座しています。神社は大きな杜の中にあり、参道も境内も薄暗く、神秘的な雰囲気が漂っています。社殿の建つ上の境内だけに僅かに陽が差して、社殿が明るく照らされていました。
 式内社・氣多御子神社に比定されている古社だそうですが、参道には三基の鳥居が立ち、2.5対の狛犬、龍が彫られた灯篭、米俵、御神馬など沢山の奉納物が見られ、この社に対する崇敬心の程が伺えました。


 御祭神:大己貴命、天照皇大神、菊理媛神
 祭礼日:不明
 境内社:天満宮
 由緒:本社の御祭神は往昔越の国の御経営に従事された大己貴命(気多大神)を主祭神とし、 さらに菊理媛神(白山大神)、天照皇大神(神明大神)を加えた三柱である。
 本社は従前「神明宮」と称せられ、上古より気多の神奈備に鎮座され、歴代の天皇が厚く御崇敬なされ平安時代初期文徳天皇の頃仁寿元年に正六位を叙せられた。
 その後数度の御昇叙を経て延喜の制国幣小社(延喜式内社)に列せられた。
 長保、寛弘の頃は花山天皇の御崇敬が特に厚く本社神護寺を祈願所と定められ鎮護国家の道場として佛生寺と御命名せられた。
 正治元年(鎌倉初期)以後三百八十年間中院家がこの地の領主として神宝、幣帛を奉納し、社殿を修理し瑞垣を造り以後社頭は常に盛大であり、明応九年(室町時代)後土御門天皇より御神階最高の正一位を賜った。
 しかしその後戦国の世となり一向一揆等の兵火や大火により神社の神宝、古文書等の多くが散逸した。
 以後、加賀藩主前田利家公始め累代藩主の御崇敬が厚く三代利常公には社殿の再建、神領の寄進等特別の保護を受け、社守には加賀藩士滝川玄蕃左門氏およびその子孫が御奉仕されていた。
 明治十二年には気多御子神社と改め大正十四年郷社に昇格。
 境内末社の菅原社は平安中期の延長年間の創建と伝えられ勧学の神として往昔より崇敬されている。
 尚、当地は額田の郷と称されていたが……(中略)……繁栄の途をたどっている。
(「気多御子神社由来碑」より)

 延喜の制国幣小社に列せられ、額見の神明宮とも称せられた。後土御門天皇明応9年正一位を授けらる。天正11年加賀藩前田利家社殿を修理し、神田を奉献。明治12年現社名に改称。大正14年郷社に列せられ、同時に神饌幣帛料供進神社に指定。また花山法皇御立寄所とも伝えられている。
(「石川県神社庁公式サイト」より)

社頭
入口 社号標
式内 郷社 気多御子神社」
参道に立つ一の明神鳥居
参道の様子
手水舎
参道に立つ二の台輪鳥居 鳥居に掛かる額
参道の様子
参道脇に立つ龍の彫刻が施された灯篭
参道と境内入口
境内入口に立つ三の台輪鳥居 鳥居に掛かる額
三の鳥居脇にいる大正5年生まれの出雲狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで
(大正5年(1916)建立)
境内の様子
拝殿前にいる明治4年生まれの狛犬
元は良さそうな狛犬ですが、残念な事に大夫痛んでしまいました。
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(明治4年(1871)建立)
初老記念に奉納された、一体だけの玉乗り狛犬
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(昭和42年(1967)10月吉日建立)
千鳥破風唐破風付き入母屋造りの拝殿
千鳥破風付き入母屋造りの本殿

境内社:天満宮
長寿祈願?の亀像 豊年祈願?の米俵像
五重石塔 御神馬像
鎮守の杜
ご神木