多太(たた)神社

小松市上本折町72 (平成26年10月18日)

東経136度27分07.63秒、北緯36度23分29.93秒に鎮座。

この神社は、JR北陸本線・小松駅の南南西800m程の辺り、上本折町の街中に鎮座しております。

御祭神 衝桙等乎而留比古命・仁徳天皇・応仁天皇・神功皇后・比淘蜷_・軻遇突智神・蛭児命・大山咋命・素盞嗚命・継体天皇・水上大神

由緒
当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると、6世紀初め、武烈天皇の5年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ平安時代初期には延喜式内社に列している。寛弘5年(1008)に舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した。寿永2年(1183)源平合戦のとき、木曽義仲が本社に詣で斉藤実盛の兜鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。室町時代初めの応永21年(1414)には時衆第14世大空上人が実盛の兜を供養された以来歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いている。大正元年に本殿後方から発掘された8千5百余枚に及ぶ古銭は、室町中期の15世紀初めに埋納されたもので、当時の本社の活動と勢力の大きさを示すものである。慶長5年(1600)小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出され三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて5丁8反243歩を寄進されたことが記録にある、加賀三代藩主前田利常は寛永17年(1640)に社地を寄進し慶安2年(1649)の制札には能美郡全体の総社に制定し能美郡惣中として神社の保護と修理にあたるべきことを決めている。元禄2年(1689)松尾芭蕉が奥の細道の途次本社に詣で実盛の兜によせて感慨の句を捧げている、歴代の加賀藩主及び爲政者はいたく本社を崇敬し神領や数々の社宝を奉納になった。明治15年に県社に指定された。歴代の宮司はその人を得、よく精励し神社の守りにあたってきた、由緒と歴史を持ち、広く人々の尊信を受けてきた本社の神威はいよいよ輝きを加えている。
石川県神社庁公式サイト より。

参道入口

社号標と鳥居

参道

境内入口

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和4年(1929)5月建立)

拝殿

拝殿内部

本殿覆屋


福久宮稲荷神社


松尾神社

木曾義仲奉納の斉藤実盛の兜

松尾芭蕉「むざんやな甲の下のきりぎりす」の歌碑