伊須留岐比古(いするぎひこ)神社

鹿島郡中能登町石動山子乙1 (平成21年7月16日)

東経136度58分37.4秒、北緯36度57分38.26秒に鎮座。

【神社情報・ナッキーさんより】
この神社は、七尾市南方にそびえる石動山(せきどうさん、いするぎやま、標高565m)山頂付近に鎮座しております。石動山縁起によれば、星が流れ落ちて三石となり、その一つ、「動字石」がこの山に落ちて以来、石動山と称するようになったと云われています。

加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の御撫物の祈祷をした勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊360余り、衆徒約 3,000人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は八十を数える。南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと明治の廃仏毀釈によって衰亡した。山頂一帯は国の史跡に指定されている。

開山は紀元前92年(崇神天皇6年)とも717年(養老元年)とも言われ、延喜式に伊須流岐比古神社として登場する。後に、虚空蔵求聞持法の修法や修験的な峰入り行が盛んになり、真言宗の寺院となって隆盛を極めた。後の太平記や太閤記が記すように任侠武勇をもって知られ、南北朝時代には宮方の越中国司中院定清をかくまったため、足利尊氏の命を受けた同国守護普門利清に焼き討ちされて一時衰退した。

戦国期には復興し、北陸に一向一揆勢力が勃興する中でも隠然たる勢力を誇ったが、1582年(天正10年)本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠った為、前田利家、佐久間盛政、長連龍らの織田軍に焼き討ちされ、再び全山焼亡した。このときの焼き討ちは、主君信長の比叡山延暦寺焼き討ちに似ているともいわれ、数百人の法印のみならず児童子まで撫で斬りにしたとか、千六十の首を山門の左右に掛け並べたなど、凄惨な弾圧がなされた。

近世には前田家により復興されたが振るわず、明治に入って施行された神仏分離政策のもとほぼ全ての院坊が破却され、以後復興されることなく廃寺となった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

『太閤記』によれば、「石動山天平寺と申すは、養老元年泰澄法師之建立にして、天智天皇之勅願所也、故に法師原武勇を事とし、任侠を家業と意得、威を振ふ事、延暦寺・根来寺之如し」だそうです。ようするに武装集団であった訳で、織田軍に焼き討ちされるのも、当然かも知れません。

御祭神 伊須留岐比古神・伊弉諾尊
由緒
式内の古社で、崇神天皇6年の創建と伝え、治承4年勅使藤原家通の参向あり。歴代の勅願所にて、中世5社大権現と称して、別当360余坊、衆徒3000を擁す。中世以来、しばしば戦場となる。暦応4年足利尊氏社殿再建。天正11年朝廷の命により、羽柴秀吉再興。現本殿は承応2年前田利常の再建。明治5年に郷社。
石川県神社庁公式サイトより。

参道入り口に立つ鳥居と社号標

鳥居

参道

参道最後の石段

拝殿

拝殿正面

本殿