金沢市尾山町11-1(平成18年11月24日)
この神社は金沢城公園のすぐ西に鎮座しています。私達の参拝する神社としては大変珍しく、観光客が沢山参拝していました。NHKの大河ドラマが放映されて以来、特に脚光を浴びているのだそうです。境内には前田利家公の像やお松の方の碑等も建っていました。とはいえ広々とした境内には沢山の樹木が植えられ、境内右側には神苑が静謐な佇まいを見せ、歴代藩主が祀られる摂社・金谷神社や、裏門にあたる東神門付近は落ち着いた雰囲気で、如何にも伝統ある金沢の総鎮守に相応しい高潔な佇まいを見せていました。
主祭神:加賀藩藩祖・前田利家公
由緒:慶長4年(1599)に大坂で亡くなった前田利家公は、遺言どおりに金沢の野田山に葬られました。その後二代藩主・利長公によって、金沢城の鬼門の方角(東北)にあたる卯辰山麓に、越中国射水郡の式内社物部神社(現
富山県高岡市東海老坂)に併祀されていた八幡神を勧請して、卯辰八幡宮(現在の宇多須神社・東山1丁目)が建立され、利家公の霊は加賀藩を守護する存在として祀られました。
明治4年の廃藩で、藩主前田家は華族となって、東京に移ることになり、元重臣の前田直信を代表とする旧藩士たちは、藩祖の偉功を守ることを希望し、さびれていた社殿を再興する運動が起こされました。
新たな社殿は、卯辰山麓ではなく、金沢の中心部金沢城の出丸金谷御殿跡地が選ばれ、明治6年に本殿、拝殿が建てられ、卯辰八幡宮から御神体が遷座され、尾山神社と称されました。旧社格は、別格官幣社で、境内摂社に歴代藩主を祀った金谷神社があります。又、平成10年には利家公の妻お松の方も合祀されました。
例祭:4月27日(利家公御命日)
【母衣「ほろ」について】
母衣(ほろ)は、日本の軍装の一種。幌・保侶とも書きます。元来は平安時代末期に生まれた懸保侶(かけぼろ)という補助防具で、流れ矢を防ぐ為に、鎧の背にかけた布の事を言います。
騎馬戦闘が廃れた室町時代辺りから、風に膨らんだ形を示す為に、竹串、クジラの骨類、ひげ等を骨組みに入れるようになり、これを母衣と呼び、装飾具、指物の一種となりました。武士の組織化が進んだ戦国時代には、赤、黄など目立つ色で着色されて敵味方に識別しやすい母衣は、大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を行き来する使番に着用が許される名誉の軍装として使われることもあり、母衣衆と呼ばれました。
織田軍団の母衣衆は、佐々成政を筆頭とした10人の黒母衣衆と、前田利家を筆頭とした9人の赤母衣衆とで、合計19名で構成されていました。