大野湊神社

金沢市寺中町(平成18年11月24日)

 この神社は金沢市街地から金石港に向かう17号線の寺中バス停前信号脇に「縣社 大野湊神社」の社号標が建っているのでそこで左折し、400m程進むと左手に鎮座しています。旧木曳川に架かる太鼓橋・高砂橋を渡り、歴史を感じさせる随神門を潜ると、昼尚暗い市指定文化財「寺中の森」が広がり、式内社、旧縣社としての悠久の時の流れや、落ち着きと貫禄などが感じられます。落葉を踏みしめて進むと、やがて明るく広々とした境内となり、1935年の大改修の時に建てられた立派な拝殿が見えてきます。建築には、小学生の子供からお年寄りまでが参加したそうです。本殿は三社並列になっており、今は銅板葺きとなった屋根上には檜皮葺き屋根の名残の千木と鰹木が飾られています。この寺中の森には大野湊緑地公園や銭谷五兵衛記念館が隣接しています。又、この神社は合計8対もの狛犬が居て、私達狛犬ファンには見逃すことのできない神社です。

 主祭神:猿田彦大神
 由緒:神亀4年(727年)、陸奥にいた佐那という人物が、日本海に面した宮腰(現在の金沢市金石浜)の佐良嶽という山の麓に鎮座していた「神明社(天照大神)」の傍に、邪霊の侵入を阻む神・猿田彦大神を祀る「佐那武社(さなたけしゃ)」を勧請したのが始まりとされています。この神明社の創建は不詳ですが、この時以来大野郷の湊の守護神となり、大野湊神社と称され延喜式内社ともなっています。建長4年(1252年)火災により社殿が焼失し、離宮八幡宮(現在地)に合祭され、以降、大野湊神社は「神明社」「佐那武社」「八幡社」の三本殿が並び建つ現在の形になりました。一時、戦国時代には荒廃しましたが、加賀藩祖・前田利家公により再興され、二代藩主・前田利長公は慶長9年(1604年)から恒例となる神事能の興行例を作り、三代藩主・前田利常公は社殿造営し氏子村を増加し、加賀藩五社の筆頭の位置にありました。
 例祭:大祭 8月1日 〜 3日
 神事能:5月15日(「寺中能(じちゅうのう)」として、現存する県内最古の演能です。)
(詳しくは下記写真でどうぞ)

17号線道路脇に建つ社号標
「縣社 大野湊神社」
随神門
参道に建つ昭和5年生まれの可愛い浪花狛犬。
目には象眼が施されていた跡があります。
吽には小さな角があり、鼻の下のチョビ髭がのんびりとしたおじさんを彷彿とさせます。
(石匠・東田兄弟謹刻 昭和5年建立)
参道の台輪鳥居 大きく立派な拝殿
建立年代不明の、出雲構え獅子でしょうか?
苔を付けシダのようなものを生やし貫禄と歴史を感じますが、
磨耗と剥落が進んで、狛犬とは解るものの顔の表情などは判別できません。
前田家3代藩主の利常公が寛永16年(1639)に再興した、県指定文化財の三本殿
(上・佐那武社、下左から・八幡社、人明社)
八幡社本殿前に鎮座まします、建立年代不明のはじめ狛犬。
塀の外からの撮影で近寄る事ができないので、上向きの顔の表情が見られないのが残念です。
石臼のような円筒形の頭部を持ち、少し出た小さい目とチョコンと突き出た耳、
長い鼻の下には線書きの猫の口蓋のような線が描かれ、髭も蓄えているようです。
細くて長い前脚と平べったく薄い胴体、ハムスターの様な短い尻尾が背中に張り付いています。
背中には字のようなものが見えますが、不明瞭で判読できません。
境内社・春日社入口 境内社・春日社社殿
境内社・春日社の年代不明の笏谷狛犬。
同じ境内社の天満宮、白山社、少彦名命の笏谷狛犬の年代が元和8年(1622)とあり、
こちらよりも良い状態なので、もしかしたら同時期か、もっと古いのかも知れません。
境内社・西宮神社入口 境内社・西宮神社社殿
境内社・西宮神社境内の出雲構え獅子。
明治39年建立で、本場出雲より遙々と旅してきた狛犬のようです。
この年代のものとしては保存状態が極めて良好です。
(明治39年4月建立)
境内社・西宮神社の年代不明の笏谷狛犬。
この子達は他の2対と異なり新しい物のように感じました。
体型も太めで彫り跡がまだ生々しく、まだこの狛犬特有の滑らかさが感じられません。
境内社・天満宮、白山社、少彦名命
境内社・天満宮、白山社、少彦名命境内の出雲構え獅子。
阿吽が反対位置に置かれているようですが、
何があったのか吽はもう石の塊にしか過ぎません。
(明治32年9月吉日建立)
境内社・天満宮、白山社、少彦名命社殿縁にいた、元和8年(1622)建立の笏谷狛犬。
私はこの子達をクレオパトラカットの狛犬と呼んでいるのですが、
一社で3対もの笏谷狛犬を見たのは初めてです。改めてこの神社の凄さを感じました。
(元和8年(1622)7月吉日建立)
絵馬殿
狛犬の拡大写真はこちらで