護国神社

金沢市石引4-18-1 (平成18年11月24日)

東経136度40分1秒、北緯36度33分22.67秒に鎮座。

この神社は市街地中心部の兼六園の隣に鎮座しています。
越前奥州の乱で戦死した水野徳三郎寛友ほか加賀藩の107人の霊を祀るため、明治3年に加賀藩14代藩主前田慶寧が創建した顕忠廟(招魂社)が創始です。当時は卯辰山にありましたが、境内が狭く式典を行うのが困難であったため、昭和10年、現在地である旧陸軍省立野練兵場の一角に遷座しました。昭和14年、石川護国神社に改称しました。

御祭神 護國の英靈 國家公共に盡くした人の靈(殉職自衞官等)

由緒
石川護国神社には、石川県出身の英霊(戦死者のみたま)をお祀(まつ)りしてあります。明治元年の戊辰ノ役(北越戦争)で戦死した加賀藩の108名の戦没者のみたまを、同3年、卯辰山に招魂社を造営して祀ったのが、その創まりです。以来、西南ノ役、日清日露の両戦役、支那事変(日中戦争)、大東亜戦争(太平洋戦争)までの英霊、四万四千八百七十八柱を合わせ祀ってあります(このうちには、第九師団管下の富山・福井・岐阜・滋賀県出身の英霊、11919柱が含まれます)昭和10年に卯辰山の招魂社から、陸軍小立野練兵場の一部である現在地に遷座されました。遷座に当って、石川県・第九師団・県下各市町村その他有志により奉賛会が組織され、2年半の歳月を費して、境内地を造成、本殿以下社殿及び工作物が造営されました。境内地は約4千坪あります。昭和14年、社名が石川護国神社と改称されました。その後、昭和45年に御創立百年記念大祭、昭和59年に御遷座50年記念大祭、平成2年に御創立120年記念大祭がそれぞれ執行されました。
石川県神社庁公式サイトより。

神社入口

参道脇に置かれた兜石

兼六園造庭のとき(西暦1825年)向粟ヶ崎の豪商・島崎屋徳兵衛が、徽軫燈籠、山崎山の石塔と供に、十三代藩主前田斎泰公に献上したもので、戸室石づくりである。
島崎屋は廻船を業とし、宮腰の銭屋、粟ヶ崎の木屋と並び称せられた家柄で歴代徳兵衛と称した。説明書きより。

この兜石に使われた戸室石は金沢城石垣にも使われたようです。ここの地名「石引」は、金沢城を築くため戸室山より石を曳いた由来から来ていると言われております。
「居眠り磐音 江戸双紙 4」で主人公は金沢にて「ここいらは石引町と言いましてね、八家の年寄役奥村丹後守様ら、高録の家臣の屋敷が並んでいます。石引とは、城の石垣を運び込んだ道ということらしゅうござんす」と説明しています。

境内入口

拝殿

拝殿内のブロンズ神殿狛犬

拝殿内の様子

本殿

御神木