出水(いずみ)神社

加賀市橋立町ホ-1-甲(平成24年6月3日)

東経136度18分43.43秒、北緯36度20分40.72秒に鎮座。

 この神社は橋立自然公園と19号線の中間に鎮座しています。参道入口には「郷社 出水神社」と記された社号標と一の鳥居が立ち、南に向かって参道を進むと右手に神池が見え、左手に由来碑があります。二の鳥居を潜り石段参道を上がって行くと、神楽殿?と手水舎が配された下の境内が有り、三の鳥居から上の境内へ向かう石段参道の途中の踊り場に二対の狛犬がいます。灯篭が建立された上の境内には、左手に社務所が配され、奥に文政10年生まれの狛犬。石垣の上に向拝のない入母屋造りの拝殿、塀内に本殿が建立されています。又、拝殿縁には実に堂々とした木製神殿狛犬が居りビックリ!本殿右には境内社も祀られています。
 宝亀元年(770)創建の古社だそうですが、小丘上の大きな杜の中に鎮座する、素晴らしい佇まいを見せてくれる神社でした。

 御祭神:天津日高彦火火出見命・豊玉姫命・応神天皇・稲倉魂神
 祭礼日:10月2日
 境内社:稲荷神社
 由緒:そもそも加賀国江沼郡橋立村の由来記は、昌泰申年(西暦九 百年)の写書が大破損に付き、ここに再度写し残す。御言い伝 えの伝記に、三千大世界の須弥山は南闡浮提の須弥の世界をい う。国造作り始めの事をあらまし記し置くものなり。
 加賀国江沼郡橋立村の御開祖は石巣宿彌尊なり。人皇第十代 景行天皇の十七年に、大漁の神と奉斎する■(偏・馬 旁・賓)■(偏・馬 旁・番)(ひんば)の背に乗り、こ の浜に御上りありて洞家を掘りて御住家とまします。御子に石綱、御娘に岸女あり。■(偏・馬 旁・賓)■(偏・馬 旁・番)(ひんば)を洞中に飼い置くに、家に海猟ありて子孫繁盛す。あまねく天の下の海猟の元とす。人皇第四十九 代光仁天皇の宝亀元庚戌の年(西暦七七十年)の九月七日に氏神を奉斎する。その頃は茅屋十四軒、男女四十六人あり。氏神の尊は天津日高子穂々出見尊、先神は御神の苗裔の石土毘古尊、上筒男、中筒男、底筒男、いずれも海水神なり。天通岐志、国通岐志、天津日高神、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津神、大綿津見神、豊玉毘賣神は出見命の御后の神なり。 玉依毘賣神、宇都志日金折命、海犬養、安曇犬飼尊、いずれも海水神 なり。氏神の相殿に応神天皇を祭神とするは、人皇代は不詳。 清和天皇の御頃に大安寺僧の行基法師は宇佐に参詣し、霊告ありて山城国男山正八幡の宮の奉斎者なり。村方の地形は、北の子に水気あり。水溢るる象あり。南の午は火性に水火既済の象あり。水は和合せず、水木退気あれども、返事ありて生気向かい。吉方の方位なり。総て建家構等押門尖り。午方位に水気置く事なかれ。福門尖にて、水気置く事あり。天門尖りに金置く事あるべし。氏神社より南二町の小塚は大漁■(偏・馬 旁・賓)■(偏・馬 旁・番)(ひんば)の塚なり。応安年中より永正年間(西暦一三七十〜一五二十年)に天下は飢え死に、ゆえにその後より田畑開かれたり。永正年間は村方大いに衰えたり。文禄年間(西暦一五九二〜一五九五年)頃より益々繁盛すべし。いずれも氏神を信仰すべし。村方の盛衰の写しのまま記し置くものなり。

神社入口
社号標
「郷社 出水神社」
入口に立つ一の明神鳥居
参道の様子
参道右手にある神池
石段参道入口に立つ二の明神鳥居
下の境内の様子
神楽殿?
下の境内奥に立つ三の台輪鳥居
石段参道
石段途中の踊り場にいる狛犬・其の一
縦置きで、阿吽の位置が反対です。潰れ気味の顔にまん丸目玉、横に大きく切れた口などユニークな顔立ちで、スックと伸びた前脚と筋肉の瘤を付けた太腿を持つ後ろ脚が、対照的な感じを与えます。明治5年建立の狛犬としては前衛的な造りをした面白い狛犬です。
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(明治5年(1872)壬申正月建立)
石段参道
石段途中の踊り場にいる狛犬・其の二
殆どワンコに近い体形で、垂れ耳の落ち着いた雰囲気を持つ狛犬です。阿吽で鬣や尾の表現が随分異なります。吽には小さな角があります。
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(天保11年(1840)庚子5月吉日建立)
絵馬堂?「見好山」
上の境内入口
上の境内
社務所
上の境内奥にいる文政10年生まれの狛犬
吽には角があり、阿はカモノハシの嘴のような形をした顎を持っています。鬣は短く、背に張り付いた尾は1700年代後半の狛犬を思い起こさせます。
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(文政10年(1827)丁亥3月吉日建立)
向拝がない入母屋造りの拝殿
拝殿縁にいる木製神殿狛犬
吽には角があり、未だ所々に彩色が残っています。とても堂々とした立派な木製狛犬です。
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本殿
鬱蒼とした鎮守の杜

境内社:稲荷神社入口
稲荷神社
稲荷神社の神使い・お狐様
先代のお狐様?それとも狛犬?
境内社