長谷部神社

鳳珠郡穴水町川島ウ29 (平成21年5月5日)

東経136度55分10.8秒、北緯37度13分30.7秒に鎮座。

この神社は、穴水港の北側、穴水町歴史民族博物館の隣に鎮座しております。

御祭神:長谷部信連

由緒
能登国大屋荘の地頭で、「平家物語」でも著名な鎌倉武士の長谷部信連(はせべのぶつら)公を祀る。信連公が建保(けんぽ)6年(1218)の逝去に先立ち自作の肖像を刻んで大町来迎寺の御影堂(みえいどう)に安置したのが、当社の起こりという。江戸時代には武健(ぶけん)大明神と称し、昭和10年由縁深い穴水城の麓の現在地に移転した。寛永21年(1644)建立の本殿は神社建築に特異な禅宗様で、殿内の宮殿は漆塗に極彩色を施した唐破風の精緻なものである。7月の例大祭(長谷部まつり)は、多彩な行事で賑わう。
石川県神社庁公式サイトより。

長谷部神社
 能登国大屋荘の地頭で、「平家物語」でも著名な鎌倉武士の長谷部信連(はせべのぶつら)公を祀る。
 信連公が健保六年(1218)の逝去に先立ち自作の肖像を刻んで大町来迎寺の御影堂に安置したのが、当社の起こりという。江戸時代には武健大明神と称し、昭和十年由縁深い穴水城の麓の現在地に移転した。
 寛永二十一年(1644)建立の本殿は神社建築に特異な禅宗様で、殿内の宮殿は漆塗りに極彩色を施した唐破風の精緻なものである。
 七月例大祭(長谷部まつり)は、多彩な行事で賑わう。
穴水町観光協会。原文はこちら。

長谷部信連(はせべのぶつら,生年未詳 - 建保6年(1218年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。右馬允・為連の子。
人となりは胆勇あり、滝口の武士として常磐殿に入った強盗を捕らえて、その功績により左兵衛尉に任命された。のちに以仁王に仕えたが、治承4年(1180年)に王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かう。奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問され屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した。平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘を与えられた。子孫は能登に存続し、長氏を称し前田氏に仕えた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

参道入り口。左手は歴史民族博物館。

神社入り口と社号標

参道途中の浪速風狛犬。拡大写真はこちら。

(安政6年(1859)10月建立)

拝殿

拝殿内部

御簾を上げるとこのように見えるようです。

本殿覆屋

子寶石

大伴家持歌碑
珠洲の海に、朝開きして、漕ぎ来れば、長浜の浦に、月照りにけり

彰忠碑

御神木