若宮八幡宮

白山市若宮 (平成21年6月20日)

東経136度34分35.93秒、北緯36度31分02.93秒に鎮座。

【神社情報・Rumarin&Saiseiさんより】
白山市役所の北東約800m、松任駅の南東約600mの所、若宮公園の西にあります。祭神は応神天皇です。

この神社は、平坦な土地に広大な敷地を有しています。
一の鳥居をくぐった先を左に曲がると、大きな駐車場があります。
鳥居の左側には、西欧文化を取り入れたと言われるお洒落な常夜灯がそびえていて、これは市の文化財に指定されています。
巨幹老木も多い境内に入ってから若宮八幡宮の拝殿までの間、まっすぐの参道の左右にあわせて六社ある境内社は、どれもが一つの独立した神社のように大きく、感心させられました。
若宮八幡宮の戸を開けて拝殿に入れば、市の文化財「神功皇后渡韓之図」を間近で見ることができます。
境内入って右手には、加賀千代女というこの神社の氏子だった俳人の像がありますが、その像(腰掛けている姿)がとてもリアルで、知らずに夜見たら驚く人がいるかもしれません。

狛犬さんは拝殿前の一対(両方とも威嚇しているような体勢)と、その裏の下手に佇む古そうな一対(先代さんかも)。
そして境内社のうち参道に入って最初にある菅原社に江戸時代のものがあります。
次の大御神社に一番新しそうな普通のもの。境内社の中で最も大きい舟越社・白峰神社には、加賀の逆立ち狛犬の小さいもの、と様々な年代とタイプのものが揃っていました。把握しているのはこの5対ですが、他にもあったかもしれません。
時間がなくて全てを撮ってこられなかったことが後悔されます。

若宮八幡宮由来記
当社の創始は平安朝の末期で石同白丸三丁町の三集落が併合して松任となった承平五年以前から鎮斎の古社である。御祭神は應神天皇一柱で康平六年鎮守府将軍源頼義が安倍貞任父子を討って奥州を平定後先ず石清水八幡宮を相州鎌倉に勧請し、次で當國では國守富樫介に本宮の造営を命じたので其族山上新保介宗久は命を畏み至誠以て社殿建立の事に當ったが、其時新に貴船社等境内社七社を勧請。翌七年二月鎌倉から従四位岡本右京西尾金太夫國府守人社家三人及び長福院が下向して祭祀を厳修した。
弘治三年七月時の神主従五位藤原大政介が神祇官に提出した書上帳によると康平七年に源頼義が幣帛を捧げたのを初めとして治承四年八月源頼朝が社料を寄進し康永三年十一月足利将軍が社領百石を納めた外、後小松天皇の嘉慶二年二月勅使左中将藤原元隆下向して圭田六十二束三毛田を納め延徳三年八月足利義稙は石鳥居一基と刀一口を寄進した其他康正年中には松任の城主松任修理亮が、天正元年には鏑木貞宗が社殿を造営修補し慶安十六年十二月加賀の藩主前田利光が年中日供米十石八斗を寄進した等古来武門武将の尊信篤く庶民の崇敬亦敦厚であった。社地は由井加新保の森とたたえ一夜で出来たと云い傳えられ津田鳳郷の石川訪古遊記や加越能金砂子社蔵の御先祖物語等にも皆一夜林業と記されている。往時は頗る廣大な森林であったことは社家社神人の邸址や経堂又は矢鏑馬馬祉等に徴しても知る事が出来る。併し現今の境内地は約八千坪である。因に明治以降の官知時代社格は県社であった。
境内由緒書より。原文はこちら。

社標と一の鳥居

参道

池と橋と二の鳥居

池のほとり 二の鳥居

拝殿

拝殿前の出雲構え

拝殿左下狛犬

神功皇后渡韓之図

拝殿内

大御神社

舟越社・白峰神社

祭神:大国主神・小名彦名神(舟越社の祭神)崇徳天皇(白峰神社の祭神)
 白峰神社は、文政年間(江戸時代1818〜29)に番匠屋吉兵衛の創立によると伝えられる。
 吉兵衛は松任の人で、辰巳町に住居し、漁業に従事していた関係で金毘羅権現を信仰し旧松任町鍛冶町136番の地に社殿を建立しました。
 白峰神社は通称金毘羅さんと呼ばれ、古来町民の崇敬を集めていたが、昭和三十八年七月都市計画による道路拡張の為、昭和三十七年この地にあった船越社の社殿を改築し、両社の神様を合祀することにしました。
 現在の本殿・幣殿は新築。拝殿は白峰神社より移転したもので左側の社務所は元の船越社のものです。
 崇徳天皇の御陵は、四国讃岐の白峰稜であります。この事から社名を白峰神社、通称金比羅さんと呼ばれる様になったと考えられます。
 船越社は、鎌倉時代の文永八年(1271)辛未十一月創立です。
 大国主神は別名大物主神、大己貴神とも言われ、出雲大社の祭神であります。日本の国を造った偉大な神様で、今日では結婚・福徳の神様として崇められております。
 小名彦名神は、大国主神を助け国造りに力を尽くし、特に医薬法を教え害虫駆除の方法を授けたといわれるところから、今日では医薬の神様として信仰されています。
辰巳町町内会

管理人の一言
明治政府の権現号禁止により御祭神を金毘羅権現から崇徳天皇に換え、社名も白峰神社に改めたと思われます。しかし地元の通称は変わることなく「金比羅さん」と呼ばれているようです。氏子の方々は今でも金毘羅権現に祈っているのかも知れません。

逆立ち狛犬

菅原社・狛犬と生猫様

若宮八幡宮の常夜灯
この常夜灯は明治三十五年頃に建てられたもので、天井に灯油ランプを吊るす金具があり、当時は毎夜明かりが灯され、松任の海岸からも見ることができ、灯台の役割も果たしたと伝えられる。明かりが入る部分の四囲いは「ギヤマン」と称された色ガラスがはめ込まれ、西欧文化を取り込んだ建物となっている。・・・・・
白山市教育委員会

加賀千代女像

加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。幼い頃から一般の庶民にもかかわらず、この頃から俳諧をたしなんでいたという。

12歳の頃岸弥左衛門の弟子となる。17歳の頃、諸国行脚をしていた人に各務支考(かがみしこう)が諸国行脚してちょうどここに来ているというのを聞き、各務支考がいる宿で弟子にさせてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠む様求められる。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に各務支考に才能を認められる。その事から名を一気に全国に広めることになった。

1720年(享保5年)18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽福岡弥八に嫁ぐ。このとき、「しぶかろかしらねど姉の初ちぎり」という句を残す。20歳の時夫に死別し松任の実家に帰った。

30の時京都で中川乙由にあう。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳には剃髪し、素園と号した。72歳の時蕪村の玉藻集の序文を書く。1775年(安永4年)73歳で没。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。1,700余の句を残したといわれている。

代表的な句
朝顔に つるべ取られて もらい水(35歳の時に、朝顔や〜 と詠み直される)
月も見て 我はこの世を かしく哉
蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。