大御堂

明治までは、現在の筑波山神社の地にあった、筑波山知足院。徳一上人によって開かれたこの寺は戦国時代、後北条氏が小田領内に侵入し、多くの記録・什宝等が破壊、散逸したと思われる。江戸期に至り、宥俊(大和長谷寺梅心院より入山)が中興の祖として別当に補任され、慶長7年、徳川家康より朱印五百石を賜う。2世光誉(秀忠の乳母の子息と云う)は江戸別院として建立されていた護摩堂(知足院)の経営にあたり、江戸在府となる。以降江戸時代を通じ、知足院が筑波山に院代を置き、寺務を執行させることになる。江戸時代の筑波山神領は、千五百石を算へ、伊勢、日光山両神領と共に他に例のない国役金免除の神領となって、専ら当神社の奉務の任に当らせたという。明治の神仏判然令布告時、責任者不在だった事で混乱を招いたのだろうか。

廃仏毀釈で本堂や三重塔は破壊されたが、御本尊は無事で仮堂にご本尊は祀られ、現在の本堂は昭和三十六年民家を移築したものと言われる。

歴史を刻んだ物は全て神社にあるようです。徳川幕府によって栄えた筑波山知足院。幕府滅亡と共に、ひっそりと佇んでおります。

境内の紫陽花