女化(おなばけ)稲荷神社

龍ケ崎市馴馬町5387 (平成24年7月24日)

東経140度10分35.6秒、北緯35度56分34.01秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
地方道48号線が県道243号線と交差する中根台四交差点から48号線を北に約1.8km進み、長山北交差点を右折し進むこと約300mで道路右側に鎮座。大きな駐車スペース有り。周囲は牛久市女化町で、ここは龍ケ崎市の飛地です。

御祭神 保食命

由緒
女化神社は永正六年(1509年)の創建と言われ、明治二年までは女化稲荷神社と呼ばれ、その後明治十二年までは保食神社、更に女化神社に変わり現在に至るそうだ。また、龍ケ崎市歴史民俗資料館によると建久年間(1190〜1198)に創立されたといわれている。

『女化物語』という民話がこの地に伝わっています。

ある日、忠七(ちゅうしち)という農夫が、狩人(かりうど)に狙われていた白狐をみて気の毒に思い、咳(せき)払いをして助けてやります。狩人には手持ちの金を渡して許してもらい、家に帰りました。その晩、50歳くらいの男と20歳くらいの女が「一晩の宿を貸してください」と訪ねてきました。忠七親子はふびんに思い泊めてあげます。
翌朝、女は泣きながら「私は奥州岩城郡(おうしゅういわきぐん)の者で、鎌倉の叔父(おじ)を訪ねるのに家来とともにここまで来ましたが、夕べ寝ている間にその家来がお金を持って逃げてしまいました。しばらくここにおいてくれませんか」と言います。優しい忠七親子が家においてあげると、女は田畑の仕事や針仕事など何でも良くやり、とてもきれいな娘でもあったので、忠七親子はたいへん気に入り、結婚することになりました。
やがて8年の歳月が過ぎ、2人は7歳のお鶴を筆頭に5歳の亀松、3歳の竹松の3人の子に囲まれて暮らしていましたが、母となった女は実はかつて忠七が助けた狐。ある日子どもを昼寝させているときに自分もウトウトして、ついうっかりしっぽを出してしまったのです。
子どもにしっぽを見られてしまった女は、この家を出ることを決意しました。かわいいわが子と別れるつらさ、その気持ちをうたった「みどり子の母はと問はば女化の原に泣く泣く伏すと答へよ」の歌が残されています。女は末っ子の竹松の帯にその歌を書いた紙を結びつけて、根本が原に帰りました。
寂しくて仕方がない子どもたちと忠七。戻ってきてほしい、せめて顔を見せてほしいと何度も根本が原を訪れ、女は一度だけ巣穴から顔をのぞかせましたが、すぐに奥へ入ってしまいました。女の決意の固さを知った家族はあきらめて家に帰り暮らしましたが、子どもたちはそれぞれ立身出世して、立派に生きたそうです。この伝説から、根本が原は「女化の原」と言われるようになりました。
龍ケ崎市公式サイト より

牛久城主岡見氏の老臣に栗林義長がおり、稲塚に向けて駒を走らせていたが、道中、火縄の匂いが鼻に入ったため、気を引き締め、辺りを見渡すと、猟師が鉄砲を構えていたので、その先を観ると、一匹の狐が腹を痛めて前足でさすっていた。あまりの痛さに火縄の匂いにも気づいていない様子であった。義長は飯名権現の詣で出たばかり、それも飯名権現の使い姫はキツネであり、飯綱使いの巫女はキツネを用いて人の吉凶を占う。義長は飯綱使いに頼んで妻の交霊をしてもらった恩もあったので、小石を猟師に向かって投げつけ、弾は狙いを外した。それに気づいた狐は察して逃げた。社前に戻ると亡き妻に似た女がおり、義長はその女を娶るが、女との間に生まれた子が6歳の頃、妻の正体が狐とわかり、行方知れずとなった。翌日、縁先に「みどり児の母はと問わば、女化(おなば)けの原に泣く伏すと答えよ」と書かれた一枚の紙が置かれていた。以来、この原を「女化原」といい、いつからか稲荷の祠が建てられた。
ウィキペディア より

南の入口

参道途中の社号標と鳥居(寛政五年製)

更に続く参道

拝殿前の鳥居

社殿竣工記念碑

改築紀念碑 文久二年の改築紀念碑
民話にちなみ3匹の子狐を持つお狐様。拡大写真はこちら。
(明治2年(1869)己巳9月建立)

拝殿

向拝

神額
向拝の狐と左右の木鼻

奉納額

拝殿内部

本殿


末社

神輿庫?

手水舎 手水石
燈籠と台座に遊ぶ狐

北の入口