頼政神社

古河市錦町(平成18年1月23日)

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
 この神社は、国道354号線を古河市内に向かい、渡良瀬川に架かる三国橋を渡って、すぐ左折、右手にあります。説明板によると元禄時代の狛犬です。300年以上経つのに、傷みがないなあーと不思議に思いました。同じ境内にあった水神宮の前にも狛犬がいます。文化11年でしたが、阿形は悲惨な状況でした。元禄9年の大燈籠 は、さすがに大きかったです。

 この神社は古河駅の西方約1.3km、古河ゴルフリンクス傍に鎮座しています。
 案内によると、元禄9年(1696)古河城主・松平信照は城内の立崎郭に先祖の源三位源頼政の墳墓があるのを知り、神社を建立してこれを祀りました、とあります。
 この立崎郭の墳墓については次のような言い伝えが残っています。平安末期、治承4年(1180)、源頼政は、平清盛を討とうと兵を集め、戦の準備をしていましたが、この計略が発覚、頼政は逆に平家に追われることになってしまったのです。宇治の平等院に逃れましたが、平家の大軍に取り囲まれ、覚悟を決めた頼政は、「私の骨は、平等院に納めることなく、頭陀袋に入れ、首にかけて諸国を巡りなさい。私が留まりたいという所に着いたなら、必ず異変が起こるであろうから、そこに骨を埋めなさい。」と、二人の家来に言い残し、自害しました。二人の家来は、主人の遺言を守り、頼政の遺骨を首にかけると、諸国巡りの旅に出、いつしか渡良瀬川下流の立崎(現在の古河市立崎)までやって来ました。二人が、ここで一休みし、出発しようとすると、頭陀袋が急に重くなり、持ち上がらなくなってしまったのです。「これが頼政様の言っておられた異変に違いない。この地に遺骨を納めることといたそう。」二人の家来は、立崎の地に塚を築いて遺骨を納め、庵を結んで生涯頼政の霊をなぐさめたということです。(「古河の昔話と伝説」より)
 正一位頼政大明神といい、「頼政様」と親しまれて多くの人の信仰を集めるこの神社は、明治末期に始まった渡良瀬川改修工事に伴い、古河城北端の旧堤上の現在地に遷座されました。その時、神社跡(古墳)から豪族の副葬品と思われる金環、管玉、小玉、矢の根、太刀の断片が発掘され、現在文化財の指定を受けて社宝として保存されているそうです。
 また案内には珍しく手水鉢、灯籠、狛犬が古河市指定文化財となっている旨も書かれています。

源三位頼政が宇治の平等院で亡くなった事は間違いの無いようです。墓もあります。しかし、渡辺丁七唱(となう)が介錯をした首の行方は諸説あるようです。「埋木は 花咲事も なかりしに 身のなるはてぞ哀なりける」。無念の最後を遂げた頼政の霊は丁重に祀る必要があったのでしょう。正一位頼政大明神として、源氏の守護神となったのでしょうか。

神社入り口 境内の様子
社殿 境内社・稲荷社
元禄時代というと1700年代初めに造られた、通常は狛犬で云うとはじめちゃんの時代ですが、
この子達は関東では珍しく、すでにはじめは脱却し、江戸尾付きの感じに進化しています。
鬣も尻尾も装飾的となり、顔はマンガチックな感はありますがしっかりと目鼻立ちが整っています。
同時代では、川越の仙波東照宮や浅草の浅草神社の狛犬に匹敵する名作でしょう。

(元禄年中頃(1696〜1703)建立)
境内社・水神宮社殿 庚申塔、水神宮碑と狛犬
水神宮前の文化11年(1814)生まれの狛犬。
中々良い面構えと造りの狛犬ですが、阿はどうしたわけか見るも無惨な姿をさらしています。
(文化11年(1814)建立)
元禄9年(1696)奉納の大燈籠
狛犬の拡大写真はこちらで