弟橘媛神社

北茨城市磯原町磯原(平成18年9月16日)

 この神社は常磐線・磯原駅の北東約1.1km、標高21.2mの天妃山に鎮座しています。因みにこの天妃山は茨城県第2位の低山だそうです。神社前方は大北川の河口で、外海の荒々しい姿とは異なり、静かな浅瀬に蕩々と川が流れています。入口から山頂へは階段で約3分位。昼尚暗い参道脇には境内社が二社祀られていました。狭い境内にはお堂のような拝殿と境内社が数社建ち、その奥の一段高みに本殿が建っています。その境内右側から奥に展望台があり、そこからは太平洋の荒海と、北東の方向には風光明媚な五浦海岸が眺望出来ました。
 天妃山由来には「天妃山は昔朝日指峯と云い薬師如来を祀ってあった。元禄三年(1690)徳川光圀公が其の像を村の松山寺に移し唐の高僧心越禅師(中国浙江省生まれ。明朝から清朝時代の人で1677年(延宝5年)、38歳の時に来日。唐の高僧というのは誤りか)の奉携して来た天妃神を此処に祀り磯原大津の海の守護神とした。それより此の山を天妃山と云う。その後天保二年(1831)徳川齋昭公が日本武尊の妃弟橘姫命を海陸の守護神として祀り弟橘媛神社と改めた。依って天妃神は合祀となっている。」とあります。
 この徳川光圀公が祀ったという天妃神とは中国、台湾で絶大なる崇敬を受けている「媽祖」の事です。10世紀後半、北宋時代に実在した女性で、航海の守護神とされています。雄都嘉神社は元は磯原工業団地辺りに鎮座していたものを合祀したそうですが、火の神様、防火の神として信仰されているのだそうです。
 また新撰組筆頭局長であった芹沢鴨は、養父である下村義次が弟橘媛神社の神官となったため、その後を継ぎ、この弟橘媛神社の神官だった時代があるそうです。この時期、芹沢鴨の尊皇攘夷思想に影響を与えた師が野口正安で、かの有名な吉田松陰までもが訪ねて来るほどの人物だったようです。

天妃とは媽祖のことです。中国歴代の皇帝からも信奉された媽祖は、元世祖の代(1281年)には護國明著天妃に封じられた。

神社前方は大北川の河口です 神社入口、台輪鳥居
社号標 参道途中の境内社、右足尾神社
境内社二社 境内社・左から熊野神社、
淡島神社、足尾神社
拝殿の社名板
「天妃姫・弟橘媛・雄都嘉神社」
拝殿
本殿左に建つ境内社 本殿
天妃山展望台下の荒海