阿彌神社

稲敷郡阿見町中郷2-25-1 (平成24年10月20日)

東経140度12分55.72秒、北緯36度02分20.01秒に鎮座。

この神社は、阿見町役場の北1.5km程の辺り、阿見の街中に鎮座しております。参道は150m程もあり、125号線、中郷交差店近くに参道入口があります。

祭神 豊城入彦命・経津主命

由緒
崇神天皇十八年豊城入彦命、東国に荏み曽て此地に至り昔建御雷経津主二大武神平国の功を憶い、其の上天地なるを偲びて慨然としていわく「皇祖の天下を経営せらるるや、阿彌普都実に能く天業を輔弼せり両神功成りて天に還りしは、蓋し是の地なるか」と、これより阿彌郷と名付け、この地に命を祭る。・・・・・・・
境内由緒書き より

第41代持統天皇5年夏、霞ヶ浦沖に夜々光が出るので漁師が沖に出て網を下ろすと、大風が吹いて雨が降り、波の上に一人の異人が現れ、「この海原に大毒魚がいて悪光をなす。」この為に漁なし。「吾は海の神少童の神である。彼の悪魚を退治しないと国家の愁となす」といって光とともに波底に沈まれた。するとしばらくすると雲が晴れ風が静まった。そこで漁師は、この海神の神徳を尊み、村内の浄地に社殿を造営して祀り、海神社と称した。このちにウミとアミが通じるところから海(ウミ)が網(アミ)となり、第46代孝謙天皇勝宝2年(750)に神託によって、豊城入彦命を合祀したという。
式内社調査報告 より

阿見町には当社と、旧竹来村の阿彌神社(竹来)があり、式内阿彌神社の論社となっている。近世、村内の熊野権現と合わせて、三社で激しく式内社を争い、文政12年(1829年)に寺社奉行の勅許を仰ぐに至った。明治以後も論争は諸説紛々で、社格的に上である竹来が有力視されているが、大日本地名辞典、郡郷考、式社考等は中郷を比定社としている。
ウィキペディア より

参道入口

鳥居

参道

参道

あちこちと欠けているのが残念!。萬延元年の江戸流れ。拡大写真はこちら。
(万延元年(1860)庚申12月吉日建立)

拝殿

拝殿前の江戸流れ。拡大写真はこちら。
(皇紀二千六百年記念 昭和15年(1940)12月建立)

神額

拝殿内部

本殿


稲荷神社

不明