妙見山日光院

神社へ向かう、妙見蘇武林道を行く途中左側に見えてきます。

日本三妙見、但馬妙見 日光院と書いてあります。

神社の社号標にも但馬妙見・名草神社と書いてありました。神社の御祭神は名草彦大神を主祭神として、天御中主神・・・・となっていますが、妙見とは妙見菩薩のことで、勿論仏様。妙見本宮を自称する千葉神社の御祭神は北辰妙見尊星王=天之御中主大神となっています。また、千葉神社は明治までは「北斗山金剛授寺尊光院」と謂うお寺でした。

妙見菩薩(みょうけんぼさつ)は、仏教における信仰対象である天部の一つ。妙見尊星王(みょうけんそんしようおう)、北辰(ほくしん)妙見菩薩とも呼ばれる。
妙見菩薩の例古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになった。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経には「我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見という。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す」とある。
妙見菩薩信仰には星宿信仰に道教、密教、陰陽道などの要素が混交しており、像容も一定していない。 他に甲冑を着けた武将形で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物で北方の守り神)に乗るもの、唐服を着て笏を持った陰陽道系の像など、さまざまな形がある。
また、中世においては千葉氏や九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神としており、千葉氏の氏神とされる千葉市にある千葉神社では今日でも妙見菩薩と同一と見なされている天之御中主神を祭神としている。これは、明治維新の際の神仏分離令によって、「菩薩」を公然と祀れなくなってしまった為に採られた措置である。同様の経緯による神社化は、九戸氏の氏神とされている岩手県九戸郡にある九戸神社や大阪府の星田妙見宮の例など少なくはない。なお、千葉神社(当時の「千葉妙見宮」)は源頼朝や日蓮からも崇拝を受けており、この縁により妙見菩薩が日蓮宗の寺院に祀られることが多い。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より

但馬妙見と称する名草神社の主祭神が天之御中主大神で無く、名草彦大神というのはやや不自然です。名草彦命をお祀りしている神社は和歌山市吉原の中言神社。和歌山県を中心に暮らしていた人たち、名草一族の氏神のようですが、どうしてこんな山の中の神社にお祀りされているのでしょうか。但馬妙見というのでしたら、天御中主神を主祭神としなければならない筈です。参拝の栞、あるいは神社名鑑に書かれている「社伝等によれば、敏達天皇14年(585)、紀伊国名草郡出身の養父郡司・高野直夫幡彦が当時流行した悪疫に苦しむ民を憐れんで・・・」のくだりは「但馬故事記」八巻の中の第三巻に記述されているようですが、日光院HPで書かれているように、偽書の疑いがあります。「歴史読本」の別冊で但馬故事記五つの謎と書かれており、但馬故事記以外の記述を示す必要があると思います。

日光院入り口。日光院公式サイトはこちら。

日光院では、但馬妙見は自分の所だと主張しています。千葉妙見や相馬妙見、あるいは大内氏の山口県でも廃仏毀釈により天之御中主を御祭神とする神社に変えられています。ここ但馬でも、日光院の主張の方が正しいような気がします。

勝手な想像だが、延喜式神名帳に記載の但馬国養父郡、名草神社に付会する為に御祭神を名草彦大神にしたのかも知れません。明治政府のやりそうな事です。御祭神は取替えられても、地元の通称は変えられないので、御祭神と通称との間に矛盾が生じたものと思われます。

第一、神社建築ではなく、寺院建築そのものです。拝殿は護摩堂、本殿は日光院本堂だった筈です。

現在の名草神社はとても良い神社です。だからこそ明治という時代、何が行われたか、それを語るべきと思います。