小田井縣神社

豊岡市小田井町15-6(平成20年8月29日)

東経134度49分38.08秒、北緯35度32分48.85秒に鎮座。

 この神社は山陰本線・豊岡駅の東北東約1kmの円山川左岸土手下に鎮座しています。入り口鳥居を潜るとやや広めの参道が続き、突き当たり左に簡潔な造りの神門が建っています。その奥は境内で、正面に入母屋造り唐破風付きの拝殿。拝殿の後方には、流麗な春日造の本殿が建っており、境内右側には、柳の宮等の境内社が整然と祀られています。
 参拝をすませ、さぁ写真撮影をしましょう…という頃から雨あしが強くなり、傘を差しての撮影となり、写真は見にくいかもしれません。この日は午前中の早い時間にもかかわらず雷の落ちる音も聞こえ、バケツをひっくり返したようなザァザァ降りとなり、一旦ホテルに避難。小止みになってからの再開…という私達の神社探訪史上初めての経験をした日でした。

 御祭神:國作大己貴命
 祭礼日:祈念祭・2月11日、例祭・4月10日、柳祭(柳の宮)・8月1・2日、秋祭・10月15日、新嘗祭・11月23日
 境内社:稲荷神社、 恵比須神社、柳の宮、川下神社
 由緒:創祀年代は不詳で、式内社・縣神社に比定されている古社です。
 大昔、この豊岡附近一帯は泥湖で、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されたのが國作大己貴命です。第十代崇神天皇の御代(前86)、四道将軍丹羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神です。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられる屈指の古社です。
 弘安年中(1278〜1287)時の守護・太田政頼の注進による但馬太田文には、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりとありますが、この時代には神仏習合で社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行なっていたようです。
 元弘3年(1333)第九十五代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めたと伝えられています。
 天正3年(1575)、垣矢筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰となりました。この時ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたといわれています。天正年中(1573〜1591)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されました。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微しました。
 貞享年中(1684〜1687)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(1736〜1740)神殿を改造しました。
 明治6年、県社に列し、明治11年とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古しました。
 昭和6年円山川治水工事のため現位置に移転し、昭和44年堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、恵比須神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。昭和25年河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。(「神社名鑑」「平成祭データ」より)

神社入口
入り口にいる皇紀2600年生まれの岡崎現代型狛犬
(皇紀2600年・昭和15年(1940)建立)
参道の様子 神門
社殿全景
拝殿前にいる明治42?年生まれの出雲構え獅子
脆い来待石で彫られているので、もう大分欠損部分が多いようです。
狛犬の拡大写真はこちらで
(明治42?年(1909)建立)
拝殿
拝殿に架かる社額 拝殿内の様子
元文年中(1736〜1740)造営の春日造本殿
本殿縁にいる木製神殿狛犬
大分傷みが激しいようですが、嘗ては象眼の眼を持ち、体格の良い、堂々とした狛犬だったように見受けられます。
境内社:稲荷神社(豊遠加姫命)
境内社:柳の宮入り口と鳥居に架かる社額
柳の宮を護る建立年代不明の出雲丹後狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで
柳の宮(五男三女神)社殿
境内社:川下神社(祓戸四柱大神)
境内社:恵比須神社(事代主命)