久久比(くくひ)神社
豊岡市下ノ宮318-2(平成20年8月29日)
東経134度50分47.06秒、北緯35度33分12.96秒に鎮座。
この神社は178号線・下宮地蔵東信号の北に鎮座しています。神社の参道は下ノ宮川に架かる神橋から始まり、流石日本で唯一のコウノトリに関わる神社です、神橋欄干にはコウノトリの姿が描かれています。入り口の鳥居をくぐり参道を進むと、さらに二の鳥居が建ち、その先に、割神門というのか、左右が神楽殿のように床が高い建物が建ち、その奥がまさに清々しい…という形容がぴったりの奥行きの感じられる境内となっています。境内内の参道正面には、入母屋造りの拝殿が建ち、その後方に、大きく秀麗な柿葺き流造の本殿が建っています。その本殿には「胸形大明神」と書かれた額が掲げられ、向拝彫刻や木鼻、蟇股などに彫刻が施されています。
御祭神:久久能智命
境内社:八幡社、三柱社、稲荷社
由緒:この社は延喜神名式に記される但馬国城崎郡二十一座のうちの小社で、もと胸形(宗像)大明神と称され、木の神 久久能智命を奉祀した式内社ですが、神社の創立年代は不詳です。一説には多紀理比売命・天湯河板拳命を祀ると言われ、末社には八幡社(事代主命)、三柱社(少彦名命)、稲荷社(保食神)の三社があります。
本殿は墨書によって永正4年(1507)に再建されたものであることが知られ、三間社流造り・柿葺の建物で構造細部技法・絵様刳型等も室町時代中期の代表的様式を示しています。社殿の全容は近隣に於ける屈指の臣社にして正に秀麗、特に蟇股の彫刻がすぐれ東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻されています。さらに斗・肘木・龍鳳象獅の彫刻など他に比類なく、その道の推賞のまととまっています。
この地・下宮は昔より鵠(くくい:コウノトリの古称)村と言われていたように、古来より国の特別天然記念物「コウノトリ」が数多く大空を舞っていた地域であり、日本書紀によれば天湯河拳命がこの地で「コウノトリ」を捕まえたと言う説が伝わっています。

「式内社久々比神社」由緒書き、「コウノトリ伝説」「久久比神社本殿略記」はこちらで
神社入口 下ノ宮川に架かる神橋 |
社号標「式内久々比神社」 |
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神橋欄干にはコウノトリが |
入り口の一の鳥居 |
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参道途中の二の鳥居 |
割神門? |
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境内の様子 |
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社殿全景 |
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拝殿 |
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国指定重要文化財・三間社流造の本殿
永正4年(1507)に再建され、室町時代中期の代表的様式を示しています。 |
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本殿に架かる額「胸形大明神」 |
本殿正面 |
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向拝彫刻は波間に龍が彫られています。 |
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境内社:稲荷神社(保食神) 入り口と社殿 |
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稲荷神社を御守りしているお狐様 |
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境内社:三柱社(少彦名命) |
境内社:八幡社(事代主命) |
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絵馬とコウノトリ伝説
日本書紀によれば垂仁天皇の御宇23年冬10月朔、天皇が誉津別皇子をともない大殿の前に立っていた時、鵠(くぐい;コウノトリの古称)が大空を鳴き渡っっていきました。
その時、皇子が「あれは何だ?」とお問いになったので、天皇は大いに喜び左右の臣に「誰かあの鳥を捕らえてみよ。」と仰せられました。 天湯河板挙が「私が、必ず捕らえて参ります。」と言い、鵠が飛び去った跡を追い、出雲国で、あるいは但馬国で捕らえたともいわれています。
そして、11月朔、天湯河板挙はめでたくこの鵠を献上いたしました。
時に皇子は30歳でしたが、いまだ物言えず、あたかも子供が泣いているような如き声しか上げず、この日初めて人並みの言葉を発せられたのです。
これほどに鵠は霊鳥なのでその棲家の地を久久比(くくひ)と呼び、その後この地に宮を建て、木の神「久久能智神」を奉斎しました。 これが久久比神社の始まりでした。
その頃豊岡盆地は「黄沼前海」(きめさきのうみ)と称して、まったくの入海、下宮の地はその入江の汀であり、あたりは樹木繁茂し、木霊のこもろう処、神自ら鎮まり座す景勝の地でありました。
先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久久能智神」を奉斎し、木の御神徳の宏大に帰依したのも肯けます。 |
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