岡太(おかた)神社

西宮市小松南町2-2-8 (平成25年12月8日)

東経135度22分55.35秒、北緯34度43分05.59秒に鎮座。

この神社は、阪神電鉄・鳴尾駅の東1km程の辺り、西宮市の住宅街に鎮座しております。又、当社は武庫郡の式内社の論社となっています。鳴尾地域では最古の神社といわれております。

主祭神 天御中主大神
配祀神 高皇産靈神・素盞嗚神・稲田姫神・大己貴神・蘇民將來

由緒
岡司神社(おかしじんじゃ)古記に大倭高市郡岡邑(おおやまとたけちこおりおかむら)の司(つかさ)、岡司氏、故有りて摂州武庫郡廣田郷に移居し、宇多天皇寛平5年(893)この地に来りて田畑を開き耕作せるに度々(しばしば)暴風雨、洪水、高潮等ありて五穀熟せず、同9年(897)一度廣田郷に帰復す。
一日 高隈ヶ原(たかくまがはら)に至り廣田社前に憩いて一睡せるに1人の老翁出現して曰く「汝 武庫の濱にて耕作すと雖(いえど)も五穀稔らさるは是 天の二十八宿の行度不順なる故也。汝 彼地に至りて開闢神(かいびゃくしん)を祈り星宿に祈請せは其憂(うれい)なき也」と。夢醒(さ)め廣田の大神の託宣と気づき感奮して再度この地に来り、開闢神と星宿に祈願して遂に五穀豊穣なるを得たり。茲に於て此地を濱村と名付け、延喜元年(901) 天御中主大神と廣田の大神五座を祀る神殿を構へたり。由って時俗 岡司宮(おかしのみや)と呼称す。と誌せり。
合祀神五座は元、上の宮と称して当社の北に当る人家の間にありしも明治8年本殿に合わせ祀りしものなり。平成12年、本殿改築。
兵庫神社庁公式サイト より

由緒
伝に曰く、宇多天皇寛平5年(893)武庫郡広田の人岡司氏、此地を開発して浜村といひ延喜元年(901)天御中主神を主神に広田の大神、五柱を末社として共に鎮祭せしを起原とし、由って岡司宮と称す。
合祀神五柱は、元上の宮と称して本社の北に當る人家の間にありしを明治5年合祀せるなり。
明治6年8月村社に列し、同12年4月県社となる。吾妻鏡建久3年(1192)の條に、武庫御厨小松庄と記せるは此地なるべし。境内に小松内大臣平重盛卿の供養塔を保存す。
境内由緒書き より

一時上(いっときじょうろう)を奉献し、五穀豊穣の感謝報賽と攘災招福を祈願する。
(旧慣)10月9日と11日に一時上揩ニ称する旧例あり。村上天皇天慶9年(946)より行われたる由、祭祀組織の北と南の当は、旧暦9月7日より準備を整えて潔斎し、9日早朝、糯の蒸飯と酒、栗を供し、同日夕、酒、柿を献す。
次て11日、報賽として、うるちの穂、酒、もち、柿、栗、柚(ゆず)、柘榴(ざくろ)と紅白両色の紙かざりを奉供し、同日夕、北と南の当屋は神前にて神酒と柿、栗、芋(さといも)の豆醤煮を拝戴す。此神事は明治の改暦後、9月の斎行を10月に改め、当の講社は地域の有志と保存会を結成して奉仕す。(西宮市指定無形民俗文化財)

参道入口

参道

手水舎

狛猪と鳥居

静止打
陰暦正月9日に行われていた。この日は西宮神社の蛭児神が静止(しし)を打つ日であり、それを避けるために等覚寺へ逃れた猪(しし)を迎えに行く祭礼であった。のちに途絶しているが、神社の境内には、現在も猪の像が鎮座している。ウィキペディア より

社殿

社殿内部


恵美須宮

恵美須宮を護る浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(文政元年(1818)戊寅9月吉日建立)
地主宮
白山宮

伝小松内大臣平重盛卿の供養塔