六甲八幡(ろっこうやはた)神社

神戸市灘区八幡町3-6-5 (平成25年12月6日)

東経135度14分15.96秒、北緯34度42分57.73秒に鎮座。

この神社は、阪急電鉄神戸線・六甲駅の南東すぐ、駅前と言って良い場所に鎮座しております。公式サイトの案内も「阪急六甲駅南出口すぐ」となっています。

御祭神 八幡大神・天照大神・春日大神

祭神は八幡大神、天照大神、春日大神、本社の創紀については諸説あって、いずれとも決めにくい。円融天皇の代に永原武信という人が、八幡宮に祈って二子をもうけたが、その二人の子も八幡宮の神助を蒙ることたびたびであったので、後一条天皇の万寿三年(1026)この地に八幡大神をまつり崇敬したといい、また平清盛の福原遷都のとき、男山八幡を勧請して、成瀬という旧地名を八幡(やはた)に改めたのが起原であるといい、別の説では花園天皇の正和年中(1312-1316)勅命によって豊前国宇佐八幡を勧請してしたとも伝えられている。
「太平記」元弘三年(1333)摩耶城合戦の条に「八幡林」の名があるのは、この社の森のことである。戦国時代のころは荒廃していたが、天正年間(1573-1591)に林播磨という人が修築し、その孫林清兵衛が寛政七年(1795)本殿などを改築した。さらに領主の石河氏が奈良の春日大社の旧社殿を移して、社殿を造営したのが現在の建物であるという。中世の文書には「八幡村」を「やわた村」とよんでいる。
また、厄神宮本殿は兵庫県重要文化財に昭和50年3月18日<143号>に指定されている。斗きょう部、蛙股並びに妻組等細部手法もその頃の技風を存する。向拝柱間を一間として、三間社の通則を破って広く構えた平面意匠は、この種建築の平面形の変遷を知る好い遺例である。一部に欠失したところ(昇り高欄、身舎の正面戸溝)や後補にかかる部分(縁高欄)もあるが、全体としてよくまとまっており、貴重な遺構である。
なお、正廿暦庚辰七月廿五日・・・・・・・の銘板三枚
奉造立一宇寛永七年云云
文政五午年八月三日云云  の銘のある修理棟札も保存されている。
古くから「摂津八幡」とも「摂津国石清水八幡宮」とも言われ「一国一社」の称号も伝えられております。
徳川の頃、江戸の酒問屋の信仰篤く、灘の清酒を回漕する際に祈願しており、江戸茅場町紙屋八左衛門、鴻池太郎兵衛、小西利作、江戸北新川の播磨屋新右衛門、江戸南新川の尼屋利兵衛、鹿嶋庄助、池田屋喜兵衛等の名も見え、また領主石河蔵人源貞貴、壱岐守源貞通、伊予守大江朝臣成美公の名も記録に残り、秀吉公が朝鮮出兵の折に祈願し、平清盛卿が福原遷都の時に京都の守護神としての山城国石清水八幡宮を福原帝都の守護神として当社へ勧請し奉ったと伝えられ、尚花園天皇のご遺詔により豊前国宇佐八幡宮よりご遷座し奉っており、亀山天皇の文永8年に後嵯峨法皇のご院宣にて荘園を豊前国に賜わり、法皇のご祈願所ともなっている。由緒は遠く神功皇后三韓平定の古きに遡り古代まで及ぶ。
六甲八幡神社公式サイト より

六甲八幡神社は、兵庫県神戸市灘区にある神社である。 祭神は八幡大神・天照大神・春日大神。 九州の宇佐神宮から勧請、 または京都の岩清水八幡宮から勧請してきたといわれるが、祭神天照大神は、勧請元のいずれにも祀られ ていないので、元々この地に祀られていた可能性がある。 毎年1月18、19日には厄神祭が行われる。
ウィキペディア より

参道入口と「摂津國八幡社」の社号標

参道

参道脇「石清水」の石碑

参道

境内

手水石

拝殿

拝殿前の浪速狛犬。拡大写真はこちら。
(天保15年(1844)甲辰4月建立)

拝殿内部

本殿


厄神宮

厄神宮本殿。かつては八幡社の本殿。詳しい説明はこちら。

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