大避神社

赤穂郡上郡町竹万(平成14年10月5日)

 ここも坂越の大裂神社と同じく秦氏の創建なのでしょうか。
神域の規模としてはこちらの方が大きい様ですが、どうも坂越のほうが創建は早かった様です。

神社の碑

拝殿と境内の様子

拝殿の見事な彫刻

彩色の無い東照宮、ともいえる程の彫刻が施してある本殿

彫りの浅いのんびり系浪花尾付狛犬

「東寺百合文書」というものがあって、それによれば、古代の旧赤穂郡は、秦河勝の子孫によって開拓されたものであるらしい。秦河勝の子孫たちは、上郡付近はもちろん、千種川をさかのぼり、流域一帯に住居を定め、優れた土木技術で開拓を進めたようだ。これらの地域に彼らの先祖神として秦河勝を祭ったのが、今の大避神社のはじまりといわれている。竹万の大避神社、岩木の大避神社をはじめ、千種川流域には各地に合計30数社の大避神社がみられたという。

 秦氏は秦の始皇帝の子孫弓月君の渡来に始まると言う伝承を持つ。 調庸の民を率いて王権に尽くした氏族とされる。彼らの持つ技術・資産から見れば、王権そのものを乗っ取ることも容易だったと思われるが、どうもおとなしすぎるきらいがある。王権とは新たな渡来人が乗っ取るものではないと言う雰囲気ができていたのであろうか。現在でもタイ、インドネシア、マレーシアでもチャイナ人が丁度古代日本の秦氏に相当するのか、経済はほとんど握っているのだが、政治の表舞台には立たない。タイの王様の地位を乗っ取ることは考えにくい。
 赤穂の秦氏は千種川流域に勢力を扶植していったようで、上流の上郡にも入ってきたのだろう。秦河勝は聖徳太子に仕えたが、皇極二年(643年)蘇我入鹿の乱を避けて、難波から赤穂の坂越の生島に逃れ、没後は生島に葬ったと伝わり、また神として祀ったと言う。