西洋列強からの圧力が増してきた江戸末期に、幕府は蝦夷地を2度目の直轄領とした。安政元年(1854)、箱館奉行竹内下野守と堀田部正は、箱館の警備について幕府へ上申し、弁天岬台場を築造することになった。
台場は、安政3年(1856)、10万両の予算で、現在の函館どつくの一角に着工された。設計・監督は五稜郭と同じ武田斐三郎によるもので、不等辺六角形(周囲約684m、面積約32,340u)をした台場は、元治元年(1864)に完成した。
この台場が実際に使われたのは、箱館戦争の時であった。台場を占拠した旧幕府脱走軍は、新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2年(1869)5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員が降伏した。
台場はその後、弁天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。明治29年(1896)、港湾改良のために取り壊されて周囲が埋め立てられたので、今は昔の姿を知ることができない。
隣の入舟児童公園