沼田(ぬた)神社

三原市沼田東町本市 (平成23年7月30日)

東経133度1分40.16秒、北緯34度23分31.41秒に鎮座。

この神社は、JR三原駅の西4km程の辺り、沼田川の南側に鎮座しております。現在は河口から4km程の辺りですが、中世では海辺であったようです。その頃は港町として大いに栄えたと言うことですが、その後の海退により、現在は平野の農村といった風景になっています。

沼田神社の由来
当社は三原市沼田東町本市に鎮座し、素戔嗚尊、櫛名田比売命、八王子神を祀る。

社殿によると、昔、沼田の里に疫病が流行したとき、真人の家に一夜の宿を借りた武塔神(素戔嗚尊)が、祠を建立して自分を祀れば、疫病や災難から人々を守護すると言って立ち去られたので、一社を建立したとある。
この辺りは、かつて満潮には海となっていたが、沼田荘の地頭小早川茂平公は嘉禎四年領家西園寺公の許可をえて干拓事業に着手し、やがて鎌倉時代中期には沼田川堤防上に沼田の本市が形成され繁栄した。当社が現在の地に移遷されたのは、此の頃と考えられる。その後当社は領主や広域の人々の崇敬により護持され、元冶元年に正一位の神階を授与された。毎年二月初卯に湯立祭、七月十三、十四日祇園祭が奉納される。沼田の郷の守護神として、国家安泰、五穀豊穣、漁業豊漁、悪疫退散、家内安全、商売繁盛を祈願するものである。

沼田市之碑
渟田(ヌタ)は海をうめて田とした所です。沼田川のデルタに真人と言ふ人あり、神の教えに從い疫病除けの社を造り斎祭ったのが渟田神社です。日毎に参詣者が多く門前市をなし、沼田市として中世に栄えました。今日も当時の地形がほぼそのまま現存して居る事は実に貴重な歴史的資料です。沼田市の名が始めて文献のうえに出たのは鎌倉末の応長二年(1312)、約670年前の事ですが、それ以前清和天皇の頃、約1100年前刺使日良磨公が渟田神社に祈誓あり、朱雀院の頃、約1000年前、鶴の城主藤原倫実公が祈願して居るので、沼田氏の時代すでに沼田市が形成されていたと思われます。
中世武士団の一つ小早川公戦運を当社に祈られ心願のしるし勝利あり。以来小早川氏と盛衰を共にしたのが沼田市です。小早川第四代茂平公が嘉禎四年(1238)、740年前念佛堂米山寺を建立し、塩入荒野を開拓し初めてより第九代春平公応永四年(1397)佛通寺を創建し翌年に塩入新田(沼田千町田)を竣工した。実に160年間かけています。
又沼田市は小早川氏が海上に勢力をのばす根據地的存在にあったのです。第十代則平公は朝鮮及び南洋にも進出し、貿易港にもしていました。実に沼田市は沼田荘の経済活動の拠点として在家三百戸が建ちならび富裕商人が多く、商業集落として他にあまり例を見ないほど繁栄ぶりが文献資料に見えています。是れ即ちふるさとの沼田東町本市であります。

境内由緒書き等はこちら。

もと祇園牛頭天王社(ぎおんごずてんのうしゃ)と称し、社伝に、往昔当地一帯に疫病が流行して真人なる住人がその事を嘆いていると、ある時1人の異人が真人の許を訪れて1夜の宿を乞い、宿を貸すならば疫病を即座に鎮めると共に将来においてもその患を除こうと持ち掛けて「我は武塔素戔天王(むとうすさてんのう)なり」と告げ、驚いた真人がその乞に従ったところ、翌日立ち去り際に渚を干拓して田と成し、沼田川から引水して稲を育てるなら豊穣が約束されようと告げ、その後即座に疫病も治まった為に真人が村人と謀ってその告げの通りに新田を開くと共に社殿を造営して武塔素戔天皇(須佐之男神)を祀ったのが創祀という。その後、清和天皇朝(9世紀後葉)に天下に疫病が流行した際には勅使が差遣されてその鎮止を祈ると忽ちに効あり、朱雀天皇朝(10世紀前葉)には鶴山城城主藤原倫実が疫病の鎮遏を祈って社殿造営、社領寄進を為し、その後小早川隆景も当神社に戦勝を祈念してその報賽に社領を寄せたが、これらは広島藩藩主福島正則によって没収されたと伝える。
元治元年(1864年)5月2日には神位正一位に叙す宣旨が下され、明治初年(19世紀後葉)に郷社に列し、同40年(1907年)2月1日に神饌幣帛料供進社の指定を受けた。
なお、今川了俊の『道行振』に「此川(沼田川)にそひて西に。としふるげなる松山の中に神の社一たてり。こしきの天神と申となり」と見える「こしきの天神」に比定する説もあったらしい。
ウィキペディア より

参道入口

参道はこの後右に曲がり社殿となります。

拝殿正面

参道途中の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。
(嘉永7年(1854)甲寅6月吉祥日建立)

拝殿

社額「正一位渟田宮」

向拝の龍と木鼻の狛犬と象

本殿


三宝屋祖霊社 不明
正一位稲荷社
大国神社 牛神社
石風呂神社 熊野権現社
新市社 恵比須社
荒神社