賀羅加波(からかわ)神社

三原市中之町5-10-20 (平成23年7月30日)

東経133度6分18秒、北緯34度24分50.38秒に鎮座。

この神社は、JR三原駅の北東3km程の辺り、三原市が和久原川に沿って北東に伸びて行く中之町の中ほどに鎮座しております。

総鎮守 御調宮、賀羅加波神社由緒
御祭神 太玉命・天鈿女命・瀬織津比賣命

天石窟で太玉命が祈祷なされ、天鈿女命が神楽を舞われた。
遠祖の神々に当り(古事記・日本書紀)大和民俗の祖神として、政治・産業・文化の神とされた。
瀬織津比賣命は河神(藝藩通志)として、治山治水の大霊神として地方大衆を守護し給う神であるところから、古代より尊称された。
朝廷は幣帛を国司に下し、国司より其の幣帛を当社に供進されていた。
延喜式名神小社に列せられ、御調一の宮に定められた。
明治以降は郷社に列せられ御調(尾道・三原・因島)では唯一の郷社として尊崇された。
現在官制は廃止されたが、敬神と信仰の心に、かわるところはない。
境内由緒書き より

御祭神…賀羅加波神社正殿・相殿
天照大御神〈農耕 衣食住 勝運 開運 諸願〉
素盞鳴尊〈農耕 治山 縁結 厄除 学問 諾願〉
豊受比賣命〈食物 稲 穀物〉
天太玉命〈請願 方除け 交通安全 開拓〉
天宇受賣命〈芸能 勝運 子宝安産 交通安全〉
瀬織津比費命〈穢祓 厄除 交通安全 河川〉
摂社
宿里神社 山城國八坂祇園社の本宮と伝わる。
須佐之男命 茅の輪伝承由来の神々を祀る。
蘇民将来命 〈疫病滅除 家内安全 開運 厄除〉
太久良神社 干川 定兼 光谷 常長 後山 蔵之内 重田 十一面 重政
八百万大神 大谷他各地より七十会社を合犯される。〈諸願成一就〉

御創建
不明、ただし延喜式神明帳に奉記さるる事から延喜(900〜)年間には既に國の重要な祭祀を執り行う主要な神社であった事は明白である。
御由緒
社名の由来については諸説あるが、賀羅加波の文字は万葉仮名であり漢字の意味はなく、和久原川が当社付近で伏流するため干川と称され、地名、社名に通じた説が有力である。
当社は延喜式神明帳に御調郡一座賀羅加波神社とある国幣小社であり御調郡一の宮、疫病鎮護の勅願所として尊崇を集めた。御神体は延喜五年師走二六日、宣下安鎮し奉られた勅願の御霊代(木像)である。以後毎年、神祇官より国司を通じて案下の幣帛を供進されていた。小早川隆景公の崇敬篤く、神田四五町歩の寄進も受けていたが、福島正則によって、影が海まで届いていたと伝わる程の大樟の神木と共に没収された。その樟の根の一部は拝殿内の絵馬に掲げられ、縁起を伝えている。明治六年二月に郷社の社格を承け益々民衆の崇敬を高めた。
亦、摂社宿里神社は山城国祇園八坂神社の本宮であると伝えられ、茅の輪神事の発祥であるとも考えられている。
特殊神事(飛射神事)
一時中断していたが、現在は節分祭に併せて執り行われる。藝藩通志によると、梅の木を以て弓を作り、鬼門艮神に向かい矢を放ち、次に鬼の字をしるした的を射た。それに続いて参拝者が一矢ずつ射放つこととなっていた。現在、梅の木を用いた弓は復元を摸索しているところである。
御神木
拝殿東側に壱千年以上の齢を経ただろう欅、西側には椋、正面には大公孫樹と云う具舎に三本もの巨木が境内地内に根を下ろしていることで、御祭神に対する畏敬の念をより高めている。
戴いた由緒書きより。

神社名の由来について、賀羅加波の”賀羅”が朝鮮半島に由来する言葉で、賀羅加波神社を帰化系の神社とするという説もあるようです。しかし55号線の入口のバス停は「干川神社前」となっています。嘗ては「干川神社」と呼ばれていたようです。

社号標と嘗ての参道

境内入口

茅の輪と狛犬

境内入口の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。
(大正12年(1923)11月建立)

拝殿

社額

幣殿

本殿

玉垣内の狛犬。拡大写真はこちら。
太久良神社 宿里神社
荒神社

大公孫樹