神田神社

呉市阿賀中央1-1-26 (平成23年7月29日)

東経132度35分52.78秒、北緯34度14分12.24秒に鎮座。

この神社は、JR呉線・安芸阿賀駅の北東600m程の辺り、阿賀の街中に鎮座しております。休山と黒瀬川に挟まれたこの辺りは、休山の東斜面に沿った南北に長い町並みとなっています。境内は小高い丘となっており、豊かな鎮守の杜となって落ち着いた雰囲気の良い神社です。

鎮守神田神社
御祭神 足仲彦尊・誉田別尊・息長足姫尊・多岐津姫命・多岐理姫命の五柱に坐し、相殿に國常立命を祭祀し、また、天照大神・大名持神・少彦名神・住吉大神・市杵島姫命・湍津姫命・田心姫命を合祀する。
由緒
神功皇后が三韓よりの帰途、御解陣の砌、豊前の國、宇佐において、皇子応神天皇を御安産遊ばされ、やがて天皇ととに御還幸の途次、安芸の国、阿賀村冠崎の浜に御船係されたところ、連日悪風が打ち続いたため、同村字神達の内、神風呂(別称神経)というところに御逗留休息された。その地続きが現在の宮地である。その後、平安時代末、天永三年壬申(1112)五月、安芸郡加賀須浦(別称香津浦)の神経山(別称神風呂山)に社殿を建立して神達八幡と称し、この浦の氏神とした。厳島文章によれば、仁安年中(1166〜1168)相国平清盛が安芸郡穏渡の瀬戸を開削するに当たり、当社に奉幣使を遣わして工事の進捗を祈願せしめた、と記されている。降って、永正年中(1504〜1520)に源盛勝が字神達の森峯に神殿を奉造した由が、古い棟札に記してある。その後、天文六年丁酉(1573,37?)五月、字神達の内、加賀須山(別称香津山)に奉移し、さらに永禄五年壬戌(1562)六月、同地の社地を広め社殿を改築し、同月八日、此処に鎮座して神田八幡宮と称した。江戸時代に入り、寛文九年己酉(1669)四月十五日、神殿を改築、ついで享保九年(1724)八月、御本殿を造立、安永七年(1778)八月、拝殿を改築する。明治維新前、御本殿茅葺き屋根を英国製の銅版葺きに改める。・・・・・
境内由緒書き より

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神社全景

鳥居

参道の石段

拝殿

拝殿前の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。
(大正5年(1916)12月建立)

絵馬

拝殿内部

本殿

本殿玉垣内の狛犬。拡大写真はこちら。

三社堂

脇社