船津八幡神社

呉市広両谷3-2 (平成23年7月29日)

東経132度38分0.75秒、北緯34度14分1.6秒に鎮座。

この神社は、JR呉線・広駅の北1km程の辺り、吉松山南西山麓に鎮座しております。町と山との境に位置するこの神社は正面に古そうな木製の鳥居が立ち、真っ直ぐに伸びる参道はやがて、鎮守の杜にしこまれて行く、景色の良い神社です。

祭神 誉田別尊・足仲彦尊・息長帯比賣命・伊弉諾尊・伊弉冉尊・瓊々杵尊・市杵島姫尊・田心姫尊・多紀津姫尊

由緒
享保の大飢饉の時村民大いに困窮の上悪疫流行し、享保二十年(皇紀2395年)船津八幡神社を建立、京の上三坂地門松山の古祠に祀ってあった神を、茲に迎えて併せ祀り、広東部落の守護神とす。
境内由緒書き より

船津と言う位ですから、享保20年(1735)頃は海が神社のすぐ前で、港となっていたのでしょうか。

享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)とは、江戸時代中期に起こった飢饉である。江戸四大飢饉の一つに数えられる。
1732年(享保17年)夏、冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。1731年(享保16年)末より天候が悪くであり、年が明けても悪天候が続いた。梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このため、イナゴやウンカなどの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらした。
被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人にも達した(『徳川実紀』によれば餓死者969,900人)。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。
ウィキペディア より

参道入口

鳥居

入口の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。
(慶応元年(1865)秋8月吉祥日建立)

参道

境内

拝殿

拝殿内部

本殿


神輿倉

工僚神社

當神社は元海軍工廠並びに第十一海軍航空廠にて勤務中に殉職又戦死した者の霊を祀り昭和二十一年十一月二十四日建立鎮坐祭を執行した。爾来一般に広地区工業関係殉職者の霊を合祀することとしている。