草津八幡宮

広島市西区田方1-11-22 (平成23年7月28日)

東経132度24分14.85秒、北緯34度22分47.02秒に鎮座。

この神社は、広電宮島線・草津駅の南西200m程の辺り、草津緑地と呼ばれる、小高い丘の南側斜面に鎮座しております。参道はいきなり189の石段で、189(ひやく)は飛躍(更なる発展)・避厄(災厄をさける)につうずるそうです。上れば眼下に町並みが広がり、遠くに広島湾が見えると言う景勝の地となっております。

当社は昔から、八幡川を境に井口地区より東は高須、庚午、更に奥は山田に至るまでの西地区一帯の総氏神です。このため各町の氏神社や地域内の神社の『ご本社』とも、又、歴史も最も古いので『元社』(もとしゃ)とも呼ばれて来ました。
草津八幡宮公式サイト より

祭神 品陀和気命・息長帯比売命・帯中津日子命
相殿神 宗像三女神(多紀理姫命・湍津姫命・市寸島姫命)・素盞嗚神・倉稲魂神・金刀比羅神

由緒
古来、この草津、古江の地は深い入江であって天然の良港をなし、神武天皇、神功皇后の伝説を多く残している。社伝によれば、推古天皇御宇(593−628)宮島の厳島神社とほぼ時を同じくして、この入江の奥に多紀理姫命を、海路の守護神として祀ったのが当神社の創祀という。八幡神の奉斎の時期については、諸説があり定かではないが、十二世紀末、鎌倉幕府の命を受け武蔵国渋谷郷(現、東京都渋谷区)から当地に御家人として来住した社家始祖(右衛門大夫または右京大夫と伝える)が八幡神を勧請し、古くより当地に祀られていた「多紀理の宮」と合祀して八幡宮を創建、後に力箭八幡宮と称した。また一説によると、宇佐八幡宮の社人、宇佐彦が土佐に赴き、七代目の渋谷右衛門大夫という者が当地に来り、宇佐八幡宮より金交石の御分霊を戴き、これを宇佐来山麓に勧請したとも伝えられ、安芸の国では最も古い八幡宮の一社といわれている。往古、当社の崇敬範囲は己斐より廿日市に至る沿岸部一帯に及んでいたという。昭和六年、近郷六箇村の氏子により境内地の造成と共に総ての社殿が再建造営された。相殿神の宗像三女神の内、市寸島姫命と湍津姫命は明治二十五年厳島神社より御分霊を神馬にお乗せして盛大に勧請され、素盞嗚命、倉稲魂神、金刀比羅神は明治末期の神社統廃合の折、合祀されたものである。なお古くは、社殿は海浜の近くにあったと伝えられるが、再建の度に高所へ遷され、現在では力箭山の中腹に鎮座している。

伝承
神武東征の多紀理宮(「古事記」は多祁理宮とする)の伝説は当地にも残っており、神社西下より御幸川の間に仮皇居が在ったという伝承がある。また、神功皇后の朝鮮出兵の折、この地で軍船の船揃えをし、弓矢(箭)の訓練をした事に因み「力箭山」と称し、草津の旧名を「軍津浦」(いくさつうら)というなどの伝承がある。

古代このあたりまで、深い入江であった。草津の地名の起こりは、軍津浦輪(いくさつうらわ)すなわち軍船の寄港地であったことによる説と、宇佐の神が祭られでいた津、宇佐津などの説がある。
創建は古く、飛鳥時代の終わり、推古天皇の頃(625)に宇佐八幡宮を勧請したことによると伝えられ、中世には力箭山(りきやさん)八幡宮ともいわれた。
祭神には宗像三女神・八幡三神他三柱が祭られている。旧暦八月十五日の氏神祭(今は、九月末の日曜日)には、三台の御輿がせり合い「草津かんか祭」として有名であった。現在は保存会により、それが伝えられている。
境内由緒書き より

参道入り口

一の鳥居と狛犬

参道入り口、豚鼻の構え狛犬。拡大写真はこちら。
(弘化2年(1845)乙巳8月建立)

参道と二の鳥居。左手は戎神社。参道は右。

参道

最後の石段と三の鳥居

境内

境内を護るのも、どっしりとした構え狛犬。拡大写真はこちら。
(明治15年(1882)3月吉日建立)

拝殿

拝殿内部

本殿


戎神社
御祭神は蛭子大神。商売繁盛・航海安全・漁業の神として信仰があります。

戎神社を護る玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

草津けんか神輿倉

神輿。草津けんか神輿の説明はこちら。

絵馬

境内より見る景色