邇保姫神社

広島市南区西本浦町12-17 (平成23年7月28日)

東経132度29分23.43秒、北緯34度22分22.26秒に鎮座。

この神社は、猿猴川と京橋川に挟まれた中洲のやや北東よりの小高い丘の上に鎮座しております。神社より南東の方角に「仁保」という地名があり、ここ「邇保姫神社」がその由来のひとつと言われています。町名が変更になったのでしょうか。

地名の由来
町名の「本浦」は、かつてこの近辺が広島湾頭に浮かぶ仁保島であった時代、黄金山の麓に形成された漁業集落「仁保七浦」(仁保村の一つ「本浦」に由来し、その名称からして仁保七浦の中では最も古い歴史を持つことが考えられる。
ウィキペディア より

御祭神  爾保都比賣神・帯中津日子神(仲哀天皇)・息長帯比賣神(神功皇后)・品陀和気神(応神天皇)

第十四代仲哀天皇の皇妃神功皇后が三韓御征伐を終え御帰りの時、此所に一夜御宿陣になり、霊験を賜った爾保都比賣神を御鎮祭。報賽の礼と鎮護綏撫の神祐をお祈りになった(390年頃)。翌日御出発の際、邪気祓いのため白羽の征矢をお放ちになったところこの山に止まった。その矢を納めて島の鎮守とした。第五十八代光孝天皇の御宇、仁和元乙巳年(885)八月上旬大いに造営し、豊前国宇佐八幡宮を勧請して、正八幡宮と稱した。合祀した御神は仲哀天皇、神功皇后、應神天皇、以上三座である。
第九十二代伏見天皇の御宇正應元戊子年(1288)三浦公の特意をもって、社領三十石を附せられたが、慶長年中福島公の時、悉く召上げられた。
明治四十二年二月神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和二十七年五月宗教法人神社本庁包括下に入る。
境内由緒書き より

もともとこの仁保にある黄金山一体を仁保島と呼んでいた。500年〜600年前広島湾に浮かぶ全くの島であった。この島は形も小さく、格好も良くない。見所がある島とは思えない。
ところが、すぐ隣の厳島は、平清盛が西の都を志して社を建て、豊臣(とよとみ)秀(ひで)吉(よし)も五重の塔や千畳閣まで建てたが、あえなくも中途で没し、哀れである。それでも大物が建てただけあって、日本三景のひとつ・世界遺産になっているが、東の仁保島はだれも手をつけなかったので、有名な島にならずに今日に及んでいる。
しかし、ここも瀬戸内の島だけに、沖を往来する船上より岩間に写す松蔭を賞め、かの名高き小野(おのの)篁(たかむら)(802-851年)の作という「入海の 二十浦かけて 十島なる 中に香深き 島は七浦」の歌に見ても、山水明媚なる風景共に世の注目を惹(ひ)き、この辺りを通る人の心を楽しませた事が想像できる。
ここでいう「七浦」とは、本浦・渕崎浦・向灘浦・堀越浦・日宇那浦・丹那浦・大河浦を指している。現在、黄金山の北側は現在国道2号線が通り盛んに自動車が船にかわり往来するようになっている。
その昔、約1,600年前頃にも神功皇后がこの海道を通られ邪気祓いのため白羽の矢を射られ、香護山に当たり、爾来、爾保キ比売神を祀る邇保姫神社が存することとなった。その後も時間は刻々と過ぎ、今では忘れられてしまった大切なものも多々有る中にも、神社には、あの大火災にも難を逃れたものがある。それは、神様のお側に奉納されていた数点の奉納物である。そのなかに仁保の獅子舞の始まりと継続を示していると思われる獅子頭が残っている。
邇保姫神社公式サイト より

参道入口

参道入口の浪速狛犬。結構ユニーク。拡大写真はこちら。
(年代不明)

参道

境内

拝殿。旧拝殿は、享保年間(1716-1736)だったそうですが、平成19年9月出火、本殿や社務所などを焼失。平成22年12月再建。

再建後奉納された平成の狛犬
(平成23年(2011)4月吉日建立)

拝殿内部