広島東照宮

広島市東区二葉の里2-1-18 (平成23年7月27日)

東経132度28分41.43秒、北緯34度24分0.99秒に鎮座。

この神社は、広島駅の北500m程の辺り、標高139mの二葉山南側、山麓斜面に鎮座しております。

廣島 東照宮 由緒
祭神 源 家康公
由緒
慶安元年(1648)廣島藩主浅野光晟公 當宮を造営す。
藝藩通志に曰く
「府城の東、尾長山(現二葉山)にあり、慶安元年宮廟新に成て、祭祀を始めたまふ。社領三百石、境内廣袤、本殿、拝殿、石の間、瑞籬、中門唐門廻廊神輿庫等あり唐門に長尾山、三字の金榜を掲ぐ。すべて門殿のうたちとかみ等、綵書彫鏤極めて精巧を尽す。門内に石燈籠十基を置。藩主及び支封赤穂候の建たまひしなり。石階、高五十一級、階下、石鳥居は、支封三次候の所建。鳥居の内石燈籠三十四基あり国老、執政大臣の所献。
山下榜文、禁制三箇條又下馬榜あり。櫻の馬場、松原まで御宮下なり。」
昭和二十年八月六日原子爆弾(ここより約2,200m西南西高度約600mで炸裂)の閃光で桧皮葺本殿並びに拝殿、瑞籬、神馬舎を焼く。唐門、廻廊、神輿庫、手水舎等大破し傾く。現在の本殿拝殿は昭和四十年四月、三百五十年祭を記念、再建す。
境内由緒書き より

御由緒
徳川家康公薨去こうきょ後33年回忌に当る慶安元年(1648)、当時の広島藩主浅野光晟(みつあきら)公(浅野家第四代)は、広島東照宮を、広島城の鬼門(東北)の方向に当たる二葉山ふたばやまの山麓に造営した。
光晟公の生母は、家康公の第三女、振姫ふりひめであったことから、祖父家康公の御遺徳を敬慕すると共に、城下町の平和を願って神霊を祀まつった。歴代藩主、社領三百石を付し、広島周辺の崇敬を集め、春秋の祭礼の外、家康公薨去こうきょ後50年に当る寛文5年(1666)以後は、五十年毎に盛大な祭典 が行われた。
広島東照宮公式サイト より

参道入り口。左手上が二葉山。

鳥居

参道

石段と唐門

境内

手水舎

拝殿

神額

拝殿内部

拝殿奥深くにお住いの神殿狛犬

本殿

一間社流造。唐破風付、銅板葺となっています。昭和20年8月6日の原子爆弾により、爆心地より2,300mの地にあったため、当時桧皮葺であった華麗な 社殿は焼失し、灰塵に帰しましたが、ご神体は焼失を免れ、無事であったことは、奇跡と言うほかありません。現在の建物は、昭和59年に再建されたもので す。

広島市重要文化財、本地堂。

江戸初期、慶安元年の造営。宝形造。当初、徳川家康公の本地仏である薬師如来が祀られていましたが、明治以降は、神輿舎に転用しました。今では数少ない神 仏混合時代の遺構で、貴重なものとされています。「総朱漆塗」「四方の中備(なかぞえ)に極彩色の蛙股をおく」「屋根の四隅の鬼瓦」「頂の宝珠」などが特 徴です。昭和59年3月修理漆塗装し、当時の姿に復元しました。堂中には大神輿があります。

御供所(ごくうしょ)

入母屋造。神に供える神饌をととのえる厨房として使われていました。内部は四室に区切られ、東北の間には一間四方の上段の間(調理した供物の仮置きの間) があります。独立した建物としての御供所が現存している例は、全国の東照宮でも多くありませんが、そのなかでも最古のものとして貴重なものです。原爆50 周年記念事業として、広島市の補助により、また、東照宮創建350周年記念として平成9年4月に解体修理しました。広島市指定重要有形文化財に指定されて います。


御産稲荷社(お産さん)

福禄寿

祖霊社。天之御中主神、浅野光晟命、などをお祭りした神社です。

御神井(ごしんせい


金光稲荷神社へ至る

参道入り口

社殿

奥宮への参道


東照宮ジャンボ釜

容量2,160リットル(ドラム缶約12本分) 重量1トン 材質鋳鉄 
ジャンボ釜雑煮は大晦日と元日にご用意しています。古来から中国山脈に産する砂鉄は、「鈩技法」により玉鋼として日本刀に、一方鋳鉄として鍋釜、風呂釜の製造に用いられました。この大羽釜はまわし形という 手法で、型が作られ鋳造されました。今ではこの技法を伝える人はないといわれています。かつて全国で風呂釜の8割を生産して鋳物王国と言われた広島の伝統 を伝えるため、市内可部町の大和重工鰍ナ復元され、昭和61年当宮に寄進されました。

原爆ゆかりの赤松

原爆誌