福山市鞆町後地1225(平成20年3月23日)
東経133度22分58.19秒、北緯34度22分58.41秒に鎮座。
この神社は観光地として名高い鞆の浦の、鞆小学校北に鎮座しています。
町並みの中にある一の大鳥居を過ぎると駐車場があり、境内の石鳥居は鳥衾形鳥居と言われる大変珍しい形の鳥居です。その先には左に神馬舎、右に参集所が在り、石段を上がった先には立派な随身門が建立されています。その随身門右側には豊臣秀吉公遺愛の国重要文化財指定・能舞台が建ち、これも組立式能舞台として日本唯一のものだそうです。その先が一番長い石段で、正面に拝殿・本殿の繋がった、これまた超大きな社殿が建立されています。その左右には数々の境内社も建ち並び、式内の古社の名に恥じない素晴らしい佇まいの神社でした。
御祭神:大綿津見命、須佐之男命
例祭日:元旦祭・1月1日、お弓神事(福山市無形文化財)・2月第二日曜日、祈年祭・2月17日、例祭・5月2日、大祓式・6月30日、お手火神事(福山市無形文化財)・7月第二日曜の前夜、夏祭・7月第二日曜(神幸祭)・第三日曜(還幸祭)、秋祭(渡守神社例祭)・9月第三月曜前の金〜日曜日、新嘗祭・11月23日
境内社:天満宮、八幡宮、竃社・塞社、松尾社・稲荷社・地主社、厳島社・艮社、渡守社、護国神社
由緒:地元では「祇園さん」と呼ばれており、京都の祇園神社(八坂神社)の本社です。旧社格は国幣小社で、戦後は別表神社となりました。
「沼名前神社」という社名は延喜式神名帳に見えますが、中世には所在が不明となっていました。
近世に各地の式内社の考証が盛んになり、沼名前神社については「渡守(わたす)社」とする説が有力となり、渡守社は、社伝では神功皇后が当地で海中から得た霊石を祀り航海の安全を祈願したのに始まるとされ、祭神は「船玉命」とされていました。
渡守社は貞享2年(1685)、『備後国風土記』に記載される「疫隈国(えんのくまのくにつ)社」に比定された「鞆祇園宮」の境内(現在地)に遷座し、明治4年(1871)、鞆祇園宮が国幣小社に列しましたが、明治8年(1875)には渡守社の方を代表として鞆祇園宮を合祀し、古名の沼名前神社に改称しました。その際、渡守社の祭神であった船玉命は、海の神ということで大綿津見命とされました。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
神社遠景 | |
一の大鳥居 | |
社号標二基 「國幣小社 沼名前神社」 「延喜式内社」 |
県指定重要文化財・鳥衾形鳥居 寛永2年(1625)水野勝重公が長男勝貞誕生にあたり、 その息災延命のため寄進したものです。 |
神馬殿 | 御神馬 |
参道の様子 | 随神門 |
随神門前、弘化4年(1847)生まれの狛犬 阿の前方に植木が生い茂り、正面写真は撮影できませんでした。大きなつり目で鼻の上に皺が刻まれ、人間のような鼻を付けています。吽には角が付き、鬣や尾、脇毛が華やかに彫られています。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(弘化4年(1847)建立) |
楽屋と能舞台 | |
国重要文化財指定・能舞台 豊臣秀吉公遺愛のもので 福山城主・水野勝成公が 徳川二代将軍・秀忠公から拝領し、 万治年中に当社に寄進されました。 組立式能舞台として日本唯一のものです。 |
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境内入口 | |
拝殿 | |
拝殿内の様子 |
本殿 |
社殿全景 |
境内社:天満宮 |
天満宮の建立年代不明の玉乗り狛犬 溌剌として若々しく、吽には角が付いています。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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境内社:八幡宮 境内社としてはとても立派な社殿で、社額の「八」の字は鳩の絵で描かれています。 |
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境内社:左から竃社・塞社、 松尾社・稲荷社・地主社、厳島社・艮社 |
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境内社:渡守社 この社も境内社としてはとても立派な社殿で、社殿左脇に御神馬が居ます。 とても珍しいですね、私は始めてみました。 |
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境内社:護国神社、入口と社殿。 | |
護国神社参道にいる安政4年(1857)生まれの玉乗り狛犬 随分険しい目つきをしていて、口蓋の波が小さめです。牙のような鋸歯も何本も見えます。 狛犬の拡大写真はこちらで |
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(安政4年(1857)建立) |
市指定重要文化財・力石 力石は吉凶を占うことから 始まったといわれています。 この力石は江戸〜明治時代、 鞆港の仲仕が祭礼の時などに 力比べをし奉納したものです。 |
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本殿脇の植木に白鷺が飛んできました。 境内の池の魚でも狙っていたのでしょうか? |
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境内から見える鞆の町並みと仙酔島 | |