春日神社

安芸郡海田町畝2 (平成23年7月26日)

東経132度33分12.97秒、北緯34度22分42.32秒に鎮座。

この神社は、山陽本線・海田市駅と安芸中野駅のほぼ中程、瀬野川北西側、海田町のでも境に近い山沿いの斜面に鎮座しております。

祭神 天津児屋根命・布津主命・建御雷男之命・姫大御神

由緒
創建は、古く鎌倉時代の初め、当時の日浦山城主の小坂治部之丞が、城の鎮護として、貞応二年(1223)に、大和国(奈良県)春日大社より、現在の地に勧請したことに始まると伝えられている。後に、永禄元年(1558)毛利氏の武将で鳥籠城主の阿曽沼元卿が、社殿を修築し、さらに天正十一年(1583)には、社領として山林十一町歩、社領米四十九石五斗を寄進している。
なお、参道の鳥居、燈籠、唐獅子等には、享保五年(1720)、寛保三年(1743)、文政六年(1823)、嘉永元年(1848)等の年号が刻まれている。
現在の社殿は、大正十二年七月の豪雨と土石流によって、旧社殿が倒壊流失した後、氏子、崇敬者の尽力で再建されたものである。
境内由緒書き より

参道

参道

後ろ足を上げたユニークが構え狛犬。拡大写真はこちら。
(文政6年(1823)癸未9月上建立)

鳥居

境内入り口

境内

拝殿

神額

本殿


頂載庫

頂載(ちょうさい)の由来
この頂載の由来につては詳かでありませんが、江戸時代中期「今から約三百年ぐらい前」に海路から大河矢野に渡来し、その後船越坂海田奥海田「今から約百七十年前」に広まり存在したもので囃子の中に「頂載は播磨の国で育てられたか」の文句があるところから兵庫辺りが発祥の地ではないかとの説があります。
春日神社の秋祭りには神輿の先導役としてその露払いの格式を持ち、五穀豊穣を感謝する氏子達が双肩で担い四人の子供を乗せその打ち鳴らす太鼓の音と供に囃子の声も勇ましく参勤交代の往来した松並木の街道を練り歩いたものであります。その道すがら頂載巡幸に出逢うと神輿先導の主役を争って頂載喧嘩となり、秋祭りは最高潮に達するのであります。両頂載は応援を兼ね野次馬の人波は先導に我忘れ、鉢巻姿の男子が打ち鳴らす太鼓の音は益々勇壮さを増し先導はいつ果つるともなく続き、遂に力尽きた一方の頂載の棟が■■はね上げられ■■落ちて勝敗を決するのである。
幸にこの頂載は連戦連勝だった■■勝ち残って今日に至ったものであります。なお本頂載の概略は次のとおりです。本体高さ3.5m 幅1.8m 縦長さ14m 横体長さ4.0m 総重量約1200kg
畝頂載保存会 原文はこちら。