多家神社

安芸郡府中町宮の町3 (平成23年7月28日)

東経132度30分45.96秒、北緯34度23分33.58秒に鎮座。

この神社は、府中町役場の北東600m程の辺り、広島のベッドタウンなのでしょうか、住宅地の一角に広い社地と豊かな緑の中に鎮座しております。

御祭神 神武天皇・安芸津彦命 相殿 神功皇后・応神天皇・大己貴命

由緒
この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(712年完成)』に阿岐国(安芸国)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐すとあり。『日本書紀(720年完成)』には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に別れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。そこで明治六年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。明治七年県社となった。その後、多くの村内小社を廃して多家神社に合祀すた。大正四年(1915)九月、社殿を消失したが、全県的な奉賛を得て大正十一年四月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。なお境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現在唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。
たれその森につて「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が、当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。
境内由緒書き より。

社伝では、式内多家神社は神武天皇が東征の際に7年間滞在した阿岐国(安芸国)の多祁理宮(『古事記』)あるいは埃宮(『日本書紀』)の跡に創祀されたものとしている。『延喜式神名帳』では名神大社に列している。
中世には武士の抗争により社勢が衰退し、所在がわからなくなった。江戸時代になると、境内社に「たけい社」のあった「松崎八幡宮」と、安芸国総社である「総社」が式内多家神社の後裔社を主張し、論争となった。結局、明治6年、両社を廃止し、現在地の「誰曽廼森(たれそのもり)」に社殿を造営して、両社で祀られていた神を祀る「多家神社」が新たに創建された。この際、両社に伝わる古記は、後の争いを避けるために全て焼却されたという。翌明治7年に県社に列格した。
ウィキペディア より。

参道入口

「延喜式内 名神大 多家神社」
社号標には誇らしげに書かれています。
しかし、中世には既に所在も不明であったようです。
江戸時代国学の高まりとともに思い出されたのでしょうか。
何れにせよ、明治の再建といったほうが正しいと思われます。
参道入口の出雲丹後。拡大写真はこちら。
(昭和49年(1974)4月3日建立)
一の鳥居と社額

参道の石段

二の鳥居

境内入口

境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

拝殿

拝殿両脇の出雲丹後。参道入口の大先輩。拡大写真はこちら。
(文政8年(1825)建立)

本殿


貴船神社

多家神社の宝蔵

廣島陸軍幼年学校碑

燈籠