貫前神社

富岡市一ノ宮(平成17年4月10日)

この神社にはデジカメのなかった時代に詣でているのですが、その時には今程関心がなかったので、大きな神社、境内が下にある神社、位しか覚えていませんでしたが、沢山の神社を見てきた現在では、流石、一ノ宮!!群馬県内では抜きん出た存在、という事が良く分りました。以下、写真の説明は貫前神社HPより抜粋させて頂きました。

貫前神社は綾女谷と呼ばれる渓間を切り開いて建造され、しかも南向きに建っているため正面参道からは丘を上って嶺に出て、それから石階段を中腹まで下って社頭に達する順路になる。この様に「1度のぼってからくだる」参道は珍しく貫前神社の特徴のひとつである。

正面参道入口、長い登り坂が続く

嶺の位置にある両部大鳥居

正面参道石階段の上に建てられている両部鳥居(前後に合計4本の柱があり、4脚鳥居、権現鳥居などともいう)で、昭和4年に群馬県内の小・中学校生徒(現在の高等学校)、男女青年団および在郷軍人の献納によって建てられた。

総門

      不明門
普段は開門しないことから「不明門」
(あかずのもん)ともいわれている。
朱雀天皇の時代の勅使参向の折に
建てられたと伝わる。

唐銅製灯籠・1865年建立の市指定重要文化財です。
狛犬や龍のレリーフが素晴らしい出来です。

(昭和2年7月建立)

スダジイ
樹齢は1000年と推定され、幹は数本の枝幹が成長して重なり合った奇異な形をしている。樹高15メートル根回り4メートル。

  二十二末社
群馬県内の主要神社の
神々22柱を一堂にあつめて
お祀りしたもの

末社日枝神社
大己貴神・大山祇神を祭神とするお社。
伊勢内宮
天照大神、外宮は豊受大神を祭神とする。

      仮殿
12年ごとの申年から酉年にかけて
行われる「式年遷宮祭」での御仮殿

小顔で逞しい狛犬。
昭和の生まれですが其れにしては形が古く、先代を模した物でしょうか?

総門から見た楼門

楼門から振り返ると結構
階段を降りてきた事が分る

摂社・月夜見神社
月夜見尊を祭神とする摂社。
また貫前神社の古い拝殿といわれ、明治時代までは牛王堂として祀られていた。
現在は近郊の4神社も合わせて祀られている。

楼 門
総門から石階段をくだった場所に建つ朱漆塗りの門。
外部は華麗な透かし彫りで彩られ、内部には寛永12年(楼門の建造年)と元禄11年(楼門の大修理を行った年)の米や麦の値段等の記録(落書)が残っていて当時の生活の一端を知ることが出来る。昭和51年国指定重要文化財となる。

拝 殿
寛永12年、本殿と同時期の建造で細部にわたって極彩色の文様や透かし彫りが施され拝殿内天井には百草が描かれている。

社殿
 現在の社殿は三代将軍徳川家光公の命により寛永12年(1635年)建造された。江戸時代初期の漆塗り極彩色による華麗な造りで、建築様式は本殿と拝殿を幣殿でつないで一連の社殿とする権現造に近い。元禄11年(1698年)五代将軍綱吉公の命により大修理がなされている。本殿は明治45年特別保護建造物(旧国宝)に指定され、昭和25年国指定重要文化財となる。

本殿
貫前神社の本殿は外見は春日造りだが、内部が2階建てで神座はその2階部分にある。「貫前造り」と称して独特な構造である。寛永12年の建築で漆塗極彩色、多くの彫刻で装飾されている。屋根正面の妻の部分には雷神の描かれた窓があり、「雷神小窓」といって信仰の対象にもなっていた。

総門の左右は見事な桜並木でした。

『一之宮貫前神社』(いちのみや ぬきさきじんじゃ)は群馬県富岡市一ノ宮に鎮座する、1400年の歴史を持つお社です。
  御祭神は「経津主神」(ふつぬしのかみ)と「姫大神」(ひめおおかみ)で、現在の社殿は3代将軍徳川家光公の命によって建てられました。
(江戸時代初期の漆塗りで極彩色の社殿は国の重要文化財に指定されています)
  また、年間祭儀が71回あり御戸開祭(みとびらきさい)や鹿占神事(しかうらしんじ)など古くからの祭儀が数多く残るのが特徴です。
■ 御祭神 ■
経津主神
(ふつぬしのかみ) 経津主神は『日本書紀』などの国譲りの場面で神名がみえる、葦原中国(あしはらのなかつくに:日本の異称)平定に功績があったとされています。
比売大神
(ひめおおかみ) 比売大神は正確な神名も祀られた由緒も伝わっていませんが、一説には綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神と云われています。
■ 御由緒 ■
 社伝には鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:当地の古い呼称)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と云われ、これが創建にあたります。 
また、天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)がありました。
奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたと云えます。
醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。
旧社格は国幣中社。