柳原馬頭観音堂

高崎市南大類町 (平成22年12月12日)

東経139度2分43.33秒、北緯36度19分15秒に鎮座。

【神社情報・源夢さんより】
柳原馬頭観音堂はJR高崎駅の東3km程の辺りに鎮座しております。進雄神社北西で、南大類郵便局の前です。とても精緻な堂宇なので連絡しました。

柳原馬頭観音堂
安産と豊作の守り本尊として古くから信仰され、鰐口の銘に「明暦二年(1656)西横手村新井喜右衛門寄進」とあり、江戸時代の初めから観音堂があったことがわかる。
現堂宇は天保十四年(1843)より近郷百六ヵ村で寄付を募り、嘉永五年(1852)に完成したことが、寄付人名台帳と屋根裏の小屋組の墨書によってわかる。柱や梁とすべての彫刻物に、寄進者の住所と氏名が線刻されている。
縁日は一月十八日と三月十八日で、護摩を焚き人々の願いを祈祷する。昔は正月に草競馬が行われ、近郷の村々から農耕馬をつれた参詣人で賑わった。
高崎観光協会。

馬頭観世音由来
人皇七十三代堀川帝の寛治三年(1088) (ユリウス暦1089の誤りか) 八幡太郎義家公東征のとき大類郷にさしかかるや乗馬俄かに蹄を損し進むこと能わず、公大いに驚き京都の清水観音を遙拝し其の快癒を祈願したるに不思議や柳叢の上に馬頭観世音の御姿出現し給い忽ち馬は一聲高く嘶きて平癒したり。公は有難し忝なしとてその御利益のあらたかなるに感激し、我蘇生の思いをなせりとて喜び給い、仮堂に馬頭観世音を安置し柳の木を植えて奥羽をさして行き給えり。永年年中義家公の男源義國金山城主となり、嫡子の義重公に至り荘厳なる殿堂を造営せらる。遠近の人々柳原観世音と稱し参詣するもの絶えず。其の後慶長三年井伊直政公箕輪城を高崎に移してより歴代の城主の尊崇厚かりしが、火災にかかり焼失し、天保年間再建せり。
毎年正月十八日は縁日にして馬頭観世音を唱念すれば瞋患の罪を滅し愚痴の心を免かる。
境内由緒書より。その他境内の案内はこちら。

境内

観音堂

「馬頭観世音」の額

確かに精緻な彫刻で埋め尽くされているようです。

馬頭尊石碑

馬頭観世音碑と庚申塔

馬頭観音や道祖神等

六地蔵等