徳川東照宮

太田市徳川町396(平成20年12月20日)

東経139度17分21.5秒、北緯36度15分2.12秒に鎮座。

この神社は、太田市の南西、利根川の北側に広がる葱畑の中に鎮座しております。嘗ては上野国新田郡得川郷と呼ばれ徳川家発祥の地とされ、家康の江戸入府の翌年(1591)、450石の御朱印地として年貢を免除されていたというから、江戸時代はまさに百姓の天国だったようです。

佐渡のような幕府直轄地は天領とも言い、参勤交代をしなければならない藩は無く、代官の支配下で、租税は安く、農民はとても豊かだったようです。俗に「天領根性」と言われる、特権意識があり、自分たちを直百姓(じきびゃくしょう)と呼んでいました。自分たちは将軍の直参百姓であって、だから大名や旗本と同格なのだ、という意味のようです。他の天領でさえこうなのですから、ここは天領の中の天領。新田郡徳川郷の百姓は脇差しを差し、大名行列にも土下座しなかったと言われています。上州長脇差しという言葉があり、上州の百姓は田畑へ出るにも脇差しを差し、しかもそれは、武士が身につけている脇差しのような短い刀ではなく、大刀に近い長さの脇差しだったそうですから、支配者たる武士から見て、ここの百姓どもは、よほど扱い辛い存在だったようです。

神社全景。明治の世となり無税の特権が失われた為でしょうか。訪れる人も稀なようです。左手は資材置き場。右手は児童公園に見えます。

児童公園入り口に立つ尾島かるた。
徳川氏発祥の地尾島町
 江戸幕府将軍徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれています。新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。

三河国の豪族・松平氏に婿養子に入ったのは、時宗の遊行僧と伝えられる徳阿弥であるという。この徳阿弥が上州徳川の出だと言ったらしいが、そもそも家康が関東の地を治める事のなったのは秀吉によって中央に近い、出身地の三河を追われ関東の僻地に追いやられたからだと聞いている。しかも征夷大将軍になる為、それまでの藤原氏を新田源氏に書き換えた位だから、つまるところ家康の出自等、当人でさえも知らなかったと思われます。

徳川氏の系譜は、系図上は清和源氏の新田氏の支流得川氏の末裔と位置付けられており、従って本姓は源姓であり、源朝臣という。一説には、当初朝廷の許可では徳川氏は源姓ではなく藤原姓の氏族として認められていたが、家康が江戸幕府を開くに当たって、幕府の長たる征夷大将軍は源氏という慣例があったために、系図の粉飾が行われたのだとも言うが、実はそれより先の1567年に三河守を受領するために、すでに系図の粉飾が行われている。

三河守を受領する前の家康の官位は蔵人佐という低いものであったが、三河統一を成し遂げ名実とともに三河の支配者となった時点で、三河守受領のために必要な位階を家康は持っていなかった。三河守受領の為の位階は従五位下に相当するが、当時の慣例では、従五位下の位階を与えられる姓の系統は限られており、祖父松平清康がかつて世良田氏(得川氏の同族)の末裔であると主張している故事に倣って、「松平氏は得川氏の末裔」説を唱えはじめ、系図を新田氏につなげたのである。足利氏でなく新田氏を選んだのは、隣接する今川氏が足利一門の名門で、足利系統の系譜に精通していた事が原因といわれている。

しかし、同時代史料による限り、3代信光は賀茂朝臣姓を名乗っており、おそらくこれが松平氏の最も古い本姓であろう。しかしこの姓では、官位受領などで不利に扱われると考えたのか、すでに信光のころから源姓を称しており、家康は若い頃はむしろ藤原姓を称している。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

とウィキペディアでも散々だが、家康は大きな間違いを犯したと思われます。新田氏を持ち上げた為、尊王思想の普及に一役かってしまったのではないでしょうか。尊王の魁とも言うべき高山彦九郎もこの近くで生まれています。最後は倒幕へと向かう尊皇攘夷の種を家康が蒔いたと言ったら言い過ぎでしょうか。

神社伊入り口。左は徳川義季公館址の碑。右は東照宮の社号標。

天正19年(1591)生田家16代当主・義豊は、武州川越で家康公に拝謁した際、「新田徳川系図」の提出と、「生田」から「正田」への改姓を命じられたという。同じ年の11月、家康から徳川郷への御朱印300石と、徳川氏遠祖の屋敷跡を正田家(生田家)が所持することを許可され、後に正田家の邸内に東照宮が建立され、祭祀は正田家が執り行っていたようです。明治の世になり、東照宮 の社地が徳川郷に寄進され、明治40年(1907)に徳川郷内の4つの神社が東照宮に合祀され、現在のかたちになったといわれています。

大正3年(1924)に永徳寺の権現堂を移築したと言われる拝殿。

拝殿の彫刻