高山神社

太田市本町48-32(平成20年12月20日)

東経139度22分36.36秒、北緯36度17分47.77秒に鎮座。

 この神社は太田駅の北西約900m、天神山に鎮座しています。参道入口は高山公園となっており、鳥居も社号標もなく、普通の神社入口とはかなり趣の異なる造りをしています。燈籠のある石段を上がると参道は右に曲がり、今度はかなり長い石段が続きますが、その途中に一の鳥居、境内入口に二の鳥居が建っています。天神山山頂は広く、森閑とした静寂の中に神楽殿?と社殿が建つのみで、「ここが本当にあの明治維新の礎となった人物・高山彦九郎を御祭神とした神社なの?」と疑問に思ったり、「 いいえ、孤高の先駆者に相応しい佇まいなのかもしれない…。」と思い直したり、静けさの中で頭の中だけはフル回転していました。横に大きな拝殿は簡潔な造りですが威厳があり、透かし塀の中の神明造りの本殿は荘厳な感じがしました。
 速く生まれすぎた幕末の偉人・高山彦九郎は太田の誇るべき人物だと思われるのですが、今はこの人の思想・偉業を知る人は太田にも少ないのか、参拝者は私達だけでした。「静かで清々しい感じの所だね〜。」と夫と話していると、帰りがけ何やら境内入口の階段の上に同じ服装をした男の子達が登ってきては折り返しています。夫がその内の一人に聞いたところでは、関東学院大学野球部が走り込みの訓練にこの長い石段を5本駆け上る訓練をしているのだそうです。関東学院大学は野球音痴の私でも聞いたことのある学校です。40〜50人位は居たのでしょうか? 以前、鳳来高校の生徒達が長〜い鳳来山の石段を駆け上がるのに遭遇したことがありますが、あそこほどではないものの、ここの石段も結構あります。「私達じゃぁ、こんな事絶対に出来ないよね〜。」と言いながら降りていく私達に、息の上がる中、きちんと挨拶をする、礼儀正しく好感の持てる学生さん達でした。

 御祭神:高山彦九郎正之命
 由緒:創建は明治6年(1873)に高山彦九郎生誕の地・太田市細谷に小祠が設けられ、地元有志は神社創建を政府に願い出たことにはじまり、明治11年に内務卿に認可され、翌12年に天神山中腹に社殿が造営されました。
 明治13年に県社に列格し、昭和7年に現在地に遷座しました。
 高山彦九郎は江戸後期の尊王思想家で、「寛政の三奇人」の一人といわれています。因みに残りの二人は、林子平と蒲生君平のことをいいます。
 延享4年(1747)5月8日新田郡細谷村(現太田市)の郷士・高山彦八正教の次男として生まれ、名を正之、字を仲縄といいました。18才の時、祖父宛に置手紙を残し京都へ上り、山崎闇齋学派の儒学の門に入り、以後数回滞在した京都では当時一流の学者・文化人等と交わり、公卿の岩倉具選邸や白木屋大村彦太郎邸などにも逗留しています。
 反幕府的な思想を持ち、尊王を高唱し、全国の学者・諸藩士等と交わり遊説を重ね、その生涯の多くを遊歴の内に過ごしましたが、その足跡は北は津軽国(青森県)から南は薩摩国(鹿児島県)開聞岳にまで及びます。またその交友関係も幅広く、前野良沢・頼春水(山陽の父)・藤田幽谷(東湖の父)・林子平・蒲生君平などがいます。
 寛政3年(1791)九州に入り、苦難の末鎖国政策をとっていた薩摩へも入っていますが、寛政5年(1793)6月27日筑後国(福岡県)久留米在住の儒医森嘉善宅で自刃しました。その志かなわぬ故からの憤死といわれています。
 幕末の尊王運動に大きく影響を与えた先駆的存在の人ですが、大政奉還成立は彦九郎憤死後の74年後でした。

高山公園からの参道入口 入口を左に曲がると燈籠が奉納され
又石段があります。
石段の参道と一の鳥居 最後の石段と境内入口に建つ二の鳥居
境内入口の靖国鳥居 境内左に建つ神楽殿?
社殿全景
横に大きな拝殿
透かし塀と本殿 神明造りの本殿
帰りがけ、関東学院大学野球部が走り込みの訓練にこの長い石段を5本駆け上る訓練をしていました。
息の上がる中、きちんと挨拶をする、礼儀正しく好感の持てる学生さん達でした。