世良田東照宮

太田市世良田3119-1(平成20年12月20日)

東経139度16分45.28秒、北緯36度15分31.55秒に鎮座。

この神社は、東武伊勢崎線・世良田駅の南1.2km程の辺り、歴史公園の中に鎮座しております。園内に東毛歴史資料館とか、中世の名刹・長楽寺もあり散策にも向いた、歴史スポットかも知れません。

元和二年(1616)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめていた。
 東照宮の鎮座により地元世良田の住民はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中取郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。寛永二十一年(1644)に遷宮式が行われた。・・・・
境内由緒書より。全文はこちら。

寛永二十一年(1644)、三代将軍徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽くされました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と謡われました。
世良田東照宮のご案内より。

神社入口の御黒門と社号標

境内案内図

境内。流石東照宮。これより先は拝観料が必要です。大人300円也。

境内右手の社務所で料金を払い、宝物館を見てから拝殿へと向かいました。宝物館はこちら。

拝殿

社額

権現号は明治政府から嫌われ、御祭神は強引に取り替えられた所が多いのだが、東照大権現は無事だったようです。徳川家を敵にするだけの度胸が無かった為でしょうか。

拝殿入り口。「昇殿禁ず」と書いてあります。昇殿:将軍・御三家・勅旨、拝殿内:大名(一万石以上)、拝殿廊下:御目見(二百石以上の旗本)、拝殿階下:御目見以下(二百石以下の御家人)、玉垣外:民衆、だそうです。我々観光客は民衆以上、御目見以下といったところでしょうか。

拝殿内の神殿狛犬。拡大写真はこちら。

拝殿正面鷹の彫刻。家康公が鷹狩を好まれたからと言う。

拝殿裏側

本殿入り口の平唐門

本殿

拝殿正面の龍。家光公の干支「辰」と説明されている。しかし、この本殿は家光公が建てたのでは無い筈ですが。

唐獅子

龍。こちらの龍は火災除けだそうです。

本殿全景

牡丹に錦鶏(きんけい) 椿に山鵲(さんじゃく)

彫刻の拡大写真はこちら。

石燈籠。忍藩五万石老中阿部忠秋奉納

大鉄燈籠

開運稲荷神社

 開運稲荷神社は、世良田に古くから祀られていた神様で、開運招福・商売繁盛・五穀豊穣に特にあらたかなご利益ある神様であります。
 創建年不詳であるが、当初の稲荷社は東照宮修復ごとに将軍家の手厚い保護により修理が成されてきたことからも由緒ある「稲荷社」です。
 明治二十五年(1892)「開運稲荷社」の移築に伴い、現在の場所に移遷、東照宮の稲荷社と合祀。明治四十年(1907)小社合祀奨励により、旧世良田村小角田の村社「稲荷神社」、旧世良田村上矢島の村社 勝手神社(末社「稲荷神社」含む)、旧木崎町高尾の村社 久呂住神社(末社「稲荷社」含む)と供に、開運稲荷神社が東照宮に合祀。
 平成八年(1996)跡地に新築成り、遷座祭が斎行され、御宮に合祀されていた各社の稲荷末社を含む計五社がこの社に鎮座。現在の開運稲荷神社となる。
境内由緒書より。

社殿

ふくよかな狐さんです。

御神木の桜。群馬県一太い桜だそうです。

天海僧正がこれらを考えたのでしょうか。