沼田大明神

沼田市町田町(平成19年5月26日)

この神社は薄根中学校のすぐ東側、宝蔵院の隣りと言うか、中と言うべきか、そのような場所に鎮座しております。沼田氏最後の将をここに祀ったようです。

沼田平八郎景義(かげよし)之墓(沼田大明神)
景義は沼田城主12代顕泰(あきやす)の側室の子で沼田氏最後の主将。兄朝憲(とものり)は13代城主となり、景義は父顕泰、はは ゆのみ と川場村天神城に移る。
永禄12年(1569年)正月ゆのみの兄金子美濃守らの策を用い顕泰は朝憲を天神城に招き謀殺した。
このため沼田城兵に攻められ天神城を焼き、尾瀬を越え会津城主芦名氏の許へ走る。ゆのみは凍死。顕泰も会津で客死した。73歳位。景義は後、勢多郡女渕城に移る。その間沼田城は、上杉謙信没後北条氏邦が奪い、さらに真田昌幸が所領。
景義は12年後の天正9年(1581年)3月挙兵し、城奪還直前の同月14日昌幸の謀計に乗った伯父金子に欺かれ、沼田城内水の手曲輪に入り金子らに殺害された。
景義42歳、沼田氏は亡びた。
昌幸は甲府より来て首実検し、沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の遺骸を此所に葬り沼田大明神として祀る。
また法喜庵(のち法城院)を建て霊を弔う。
同寺には景義の像と沼田氏系譜があり、これは金子一族の子孫、利根村大原金子重右衛門照泰らにより作られ、安永7年(1780年)納められたものである。
(岸 大洞 文撰)   由緒書きはこちら。

神社入り口と鳥居に架かる額。

覆い屋と本殿。

前沼田城主 沼田平八郎景義公の墓。