宮鍋神社

前橋市元総社町 (平成22年10月30日)

東経139度2分20.21秒、北緯36度23分13.74秒に鎮座。

【神社情報・源夢さんより】
この神社は関越自動車道・前橋ICの北東1.5km程の辺り、前橋市の街中に鎮座しております。

宮鍋神社由緒
御祭神 経津主命・金山昆古神・金山昆賣神
例祭日 三月・七月・十月の各二十一日
創立年月日 不詳
人皇十代崇神天皇の第一皇子豊城入命(豊城入彦命?)が東国統治の命を奉じ、この地方に下降した際、宮之辺の地に経津主命を祭祀して武運長久を祈ったのが、総社神社の始まりと伝えられております。
その後、九十六代後醍醐天皇のとき、元弘の乱で北条氏が滅び建武中興の世となりました。
足利直義は戦功により関八州とそれに付属する伊豆、甲斐、越後の国の行政権を与えられ、天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入部しました。
家臣「長尾佐衛門尉景忠」は上野越後守護代となり、四男忠房は上野国府の地を給わりました。忠房は国府を城郭化し蒼海城と称し、宮之辺の地より総社神社を現在地へ移したようです。神社裏の貞和五年(1349)の宝塔も長尾氏一族の建立したものであろうと群馬県人名大辞典に書かれています。長享二年(1488)九月二十八日、僧の万里集九が角淵(玉村)より白井へ向かう途中、国分寺跡あたりから見た展望を日記に「隔一村馬上望拝上野之総社」(一村を隔てて馬上より上野総社を拝す)とあります。また。古総社(現宮鍋神社)の前を通過する折に「数株老樹斧屠残」(数株の老樹に斧の傷跡を残す)とあり、これらの日記から察するに永禄九年(1566) 頃、武田軍と長尾軍の合戦により焼失した惣社神社は、宮之辺の地ではなく現在地であろうと思います。
次に宮鍋は宮之辺が変化したのではなく、惣社神社移転の跡地の東傍らの屋敷(2041、2042番地)に鋳物を業とする人々が定住して、経津主命に鋳物師が崇敬する製鉄の神、金山昆古神、金山昆賣神を合祀して「宮鍋神社」と称したのであろうと思います。鍋という字は、他県の鋳物師の氏神には数多く使われている様です。前記二屋敷跡より多数の鋳物屑が発見されております。
明治三十年十月に木造鳥居の建立記録が殿小路町にあり、大正八年四月十六日総社神社に合併されましたが、昭和六年十二月一日県の指示により、再び宮之辺の地に移転となりました。
当社は今なお「宮鍋様」と称して、殿小路町、粟島町の崇敬の社であります。
境内由緒書より。原文と上野国府正庁推定復元図はこちら。

教育委員会の説明にも上野国府はこの宮鍋様の辺りにあったと推測されている・・・・とあり確定されていないようです。しかし、ここは、嘗てこの地を治めた長尾氏が築いた蒼海城の跡とされ、蒼海城は上野の国府跡に建てられたという記録もあり、この辺りを上野国府跡と考える人は多いようです。

神社全景

社額

社殿