日枝神社

前橋市総社町総社2408 (平成23年5月28日)

東経139度2分5.99秒、北緯36度23分54.03秒に鎮座。

この神社は、上越線・群馬総社駅の南1.5km程の辺り、総社街中に鎮座しております。現在は、ブロック塀で囲まれた極平凡な神社ですが、何と、群馬県最古の寺院跡というのですから驚きです。

日枝神社(山王)
祭神 大山咋命
由緒
当社は天台宗の守護神として近江国日吉神(山王権現)を勧請したものである。往時この地に昌楽寺と称する天台宗寺院があったからであろう。社伝によれば治承4年 (1180) の兵火に焼かれる以前は、この地に山王21社があり早尾、王子宮はじめ諸種の社殿が立ち並んでいたという。社宝には、現在山王曼荼羅掛軸などが保存されている。鎮守産土神の例祭日は4月3日。境内には元禄8年(1695)の庚申塔をはじめ18基の万造物(民間信仰遺産)が安置されている。
総社地区史跡愛存会

山王廃寺(放光寺) 〜県内最古の寺院〜
古代上野国の中心地域である前橋市総社町に、7世紀後半の白鳳期に建てられた県内最古の寺院です。塔に関連した根巻石や鴟尾、仏具の緑釉陶器等も発見されています。「放光寺」・「放光」という文字を刻んだ瓦も発見され、この寺が「山ノ上碑」や「上野国交替実録帳」に記録されている「放光寺」であったことがわかりました。上野国の政治に深く関わった豪族が、権力の象徴として建てた寺院と考えられます。
県立歴史博物館展示資料 より

由緒書等の原文はこちら。

山ノ上碑 拓本
辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生 児
長利僧母為記定文也
放光寺僧

辛巳(かのとみ)の歳(とし)集月(じゅうがつ)三日記す。
佐野の三家(みやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫「黒売刀自(くろめとじ)、此れ、
新川臣(にいかわのおみ)の児「斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫
大児臣(おおごのおみ)と娶ぎて生める児
長利僧(ちょうりのそう)、母の為に記し定める文也
放光寺(ほうこうじ)の僧


山ノ上碑(やまのうえのひ)は、群馬県高崎市山名町にある古碑であり、
国の特別史跡に指定されている。
金井沢碑、多胡碑とともに「上野三碑」と称される。
ウィキペディアより

山王廃寺の名称を、現地の説明では「昌楽寺」。県立歴史博物館では「放光寺」と言っております。博物館は証拠を挙げて説明していますが、史跡愛存会は根拠を示して無く、やや説得力に欠けると思います。

神社入口

拝殿

本殿


史跡 山王塔跡

大正10年塔心礎が発見され、ここが古い時期の寺院跡であることがわかり、地名にちなんで「山王廃寺跡」と名づけられた。塔の心礎は一辺14mの方形基壇の中央を掘り凹めた中に置かれ、東西3m、南北2.5m、厚さ1.5mという巨石を加工したものである。心礎のほぼ中央には、径65cm、深さ18cmの孔(柱受けか)と、さらにその中央に径27cm、深さ30cmの舎利孔との二段の孔がうがたれている。孔の周囲には径108cmの環状の溝があり、そこから放射状の溝が東西南北の方向をさして刻まれている。塔の心柱の太さは環状の溝内縁に合致するものであっろうか。寺院建立時期は、出土瓦などから7世紀末の白鳳期の頃と考えられる。

塔心礎。覆屋が少し右に寄っているように見えるが、そうすべき理由があったのでしょうか。しかし立派な心礎です。

石製鴟尾と塔心柱根巻石の覆屋

国指定旧重要美術品 石製鴟尾

鴟尾は、中国伝来の架空の動物で火にあうと水を吹き雨を降らすとの伝説から、防火上のまじないとして、屋根の大棟の両端につけられるようになりました。鯱は、中世以降から変化したものです。
有名な奈良県の唐招提寺のものは陶製で、石製のものは少なく、山王廃寺のものと、鳥取県伯耆大寺廃寺のものしかありません。
この鴟尾は角閃石安山岩製で高さ1m、重さ1tもあり、この鴟尾を大棟の両端に据えた、山王廃寺の建物の壮大さが想像されます。

県立歴史博物館資料

国指定重要文化財 上野国山王廃寺塔心柱根巻石一具

根巻石は、唐風建築の基部に巻きつけ装飾としたもので、我国では大変めずらしいものです。
この根巻石は現在地から約100m東の地点で井戸枠に使用されていたもので、出土位置は不明です。
7葉の蓮弁は輝石安山岩製で、径96.5cmの穴を有します。石材の加工技術は当時(7世紀後半)では高度なもので、宝塔山古墳、蛇穴山古墳の石室の加工技術との関連性が考えられています。


やはり日枝神社と言えばお猿さんなのでしょう。

神仏習合の名残を留める、石碑や石仏等。