小幡八幡宮

甘楽郡甘楽町小幡1 (令和元年5月1日)

東経138度55分26.09秒、北緯36度13分52.77秒に鎮座。

この神社は、甘楽町役場の南1km程の辺り、小幡の街外れに鎮座しております。

御祭神 応神天皇

由緒
当社は元和2年(1616)正二位内大臣織田信雄、封を此の地に受け小幡城主たるに及びて正保乙酉2年(1645)8月、一社を創建し高田村字新光寺より八幡宮を勧請し、産土神として之を尊崇せり。其の後3代将軍家光、社領7石を寄進し、以来明治維新に至る迄歴代将軍の朱印絶ゆる事なし。明和4年(1767)8月山形大弐の事起るや、織田家は羽前高畑に移封せられ、従五位下松平摂津守忠恒が代わって小幡を領す。崇敬の誠、祭祀の礼を承けて旧事に異なる事なし。明治7年(1874)、小幡村の村社八幡宮に列し、同39年(1906)2月、勅令に基づき神饌幣帛料を供進せらる。同42年(1909)1月29日、小幡村大字善慶寺の村社熊野神社、同村大字国峰の村社石上神社を始め、諸神社を合祀す。而して小幡の地たる古代小波多連の領邑たるに因み、小波多神社と改称したり。昭和24年(1949)12月24日、神社本庁の許可を得て、小幡町大字善慶寺に熊野神社創立、祭神分祀せり。昭和25年(1950)5月15日、神社本庁の許可を得て、同町大字国峰に石上神社を創立、祭神分祀せり。昭和25年(1950)12月28日、神社本庁の許可を得て、小幡八幡宮と改称せり。
境内由緒書き より。

山県大弐(やまがた だいに、1725年(享保10年) - 1767年9月14日(明和4年8月22日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家。野沢氏の出自。名は昌貞。字は子恒。通称を軍事のち大弐と称した。医号は柳荘、洞斎。戦国時代に甲斐武田氏の譜代家臣である山県昌景の子孫であるという。
明和事件(めいわじけん)は、江戸時代中期におこった幕府による尊王論者弾圧事件。
甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で宝暦8年(1758年)に起きた宝暦事件に連座した藤井右門(直明)は江戸に出て大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説いた。幕府は上野国小幡藩(2万石)の内紛にかこつけて両名を逮捕し、明和4年(1767年)不敬罪として大弐を死罪に、右門を獄門に処した。さらに、宝暦事件により重追放となった竹内敬持にも累を及ぼして遠島に処した。また、小幡藩主の織田家(織田信長の次男織田信雄の末裔)は出羽国高畠への移封(のち天童にうつる)の上、織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃された。
ウィキペディア より。

山県大弐を祀る山縣神社はこちら。

参道入口

参道

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和7年(1932)2月建立)

割拝殿

拝殿

拝殿内部

本殿覆屋

本殿


弁財天

末社

神楽殿